おわりに:「不思議の国」の外へ

「〈アリス〉への冒険」は、冒頭でも述べられたとおり、第十一章末尾での白ウサギによる「アリス!」という宣言によって終わる。あるいは終わり始める。アリスはその前後で徐々に体が大きくなり、とうとう元のアリスの大きさに戻り、夢から目覚める。その過程で、裁判所での王様に対して高圧的な態度を取ったり、襲いかかってきたトランプも単なるトランプでしかないと払いのけようとしたりと、今度は「不思議の国」におけるキャラクターとしての役割を忘却しようとしている。同一性の忘却という夢、不思議の国という忘却の世界から抜け出すことによってアリスの同一性は回復し、「〈アリス〉への冒険」が終わるのである。


「〈アリス〉への冒険」はいわゆる「夢オチ」的に終わりを迎えるが、この終結は「個体」の問題、あるいは同一性の問題の哲学的な困難を密かに告白している。例えば私たちが不思議の国に迷い込んだとして、そのときに青虫に「お前は誰だ?」とかハトに「あんたは何なのさ?」と問いかけられたとしよう。不思議の国では自分の名前を答えることは十分ではない。それは "What's your name?" に対する答えであって、"Who are you?" に対する答えではないからである。"Who are you?" という問いに真っ向から答えようとすると私たちはたちまち困惑してしまう。私にとって正しい述語の束を列挙したとしてもそれは解答にはならないことはすでに見た。「アリス性」を明らかにすることには困難がつきまとう。実際、上に紹介した哲学者ドゥンス・スコトゥスも、人間は「これ性」を認識することはできないと語っている。「〈アリス〉への冒険」の「理想的な」終着点は、あくまで理想に過ぎない。アリスが不思議の国において〈アリス〉を明らかにすることができない以上、「〈アリス〉への冒険」は「夢オチ」的な終わりを避けることができなかったのである。


 人は、アリスに限らず誰しもが個体である。さらには、この世界に存在しているあらゆるものは個体である。私たちは個体と慣れ親しんでいる。私たちは本来的には個体しか知らないはずなのである。しかし個体を説明しようとすると困ってしまう。「不思議の国的な」"Who are you?" という問いにはうまく答えることができない。個体についての問題は、それゆえ哲学史においても繰り返し問い返されている。


 この感想文で概説された哲学的問題は一般に「個体化の原理」あるいは「個体化の問題」と呼ばれているものである。アリスの問題を「アリスが〈アリス〉であるのはなぜか」と整理するとして、これを Alice-problem と呼んでみよう。個体化の問題の哲学史においては、この Alice-problem とは別に、個体に関する別の問題があったことが分かる。それは、いうなら「アリスはなぜ一人しかいないのか」という問題である。私は、岡崎律子の「1993 年、春」という曲の「「なぜあなたは一人しかいない」と、しかたないことを考えたりする」という歌詞から、1993-problem と密かに呼んでいる。ただし、これらの問題は、異なる別の問題であったが、哲学史上は多くの場合、同時に解答されていたことと思う。不思議の国を旅するアリスにとって 1993-problem が生じなかったのは、不思議の国にいる人間の女の子がアリスだけだったからかもしれない。それゆえ 1993-problem の方は今回は扱わなかった。


『アリス』を単なる児童文学という枠に押し込めてしまうことはできない。あるいはそれは非常にもったいないことである。『アリス』は無数の読み方を許容し、無数の思考を促し、無数の発見があるテクストであろう。この読書感想文は一個の解釈を、あるいはこう言ってよければ一個の発見を提示したものである。これによって新たに『不思議の国のアリス』の物語に迷い込む人が増えるならば何よりも幸いである。

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