3.「私の名前はアリス、私は誰?」
私たちはおそらく普段 "What's your name?" と "Who are you?" という問いを区別して理解はしない。いずれの問いに対しても、まず自分の名前を名乗るのではないだろうか。「お前は誰(何)か」という問いは、日常では得てして「お前の名前は何か」という問いに回収されてしまっている。前者の問いに対しても、固有名をもって返答とすることでも日常的には十分なのである。それでは非日常的なできごとが次々と起こる不思議の国ではどうか。これが第三節での問題である。
『アリス』における「アリス」という固有名を巡っては、すでに様々な指摘がある。哲学者のジル・ドゥルーズはアリスの冒険を「固有名の喪失」と表現した。また、すでに紹介した宗宮喜代子は『ルイス・キャロルの意味論』において、固有名の持つ意味という観点で二つのアリスの物語を読み解こうとしている。二つのアリスの物語、とくに『不思議の国のアリス』において「アリス」という固有名を巡る冒険が特権的な地位を得ているのは確かである。ドゥルーズの診断も、宗宮の指摘もその点では正しい。しかし問題はそこで終わらない。(以下の議論の詳細は『ルイス・キャロルの意味論』に譲るが、)「(クリプキを持ってはじめて、キャロルの問が解答を得た感がある。)少なくともアリス自身は、自分を常にアリスとして同定できるはずである。「アリス」という名前もアリスを指示することをやめない。固有名は指示する(宗宮喜代子、『ルイス・キャロルの意味論』、p. 137.)」と宗宮は語っているが、たとえ固有名についてのクリプキの理論によってキャロルにとっての問題が解決したとしても、アリスにとっての問題はまだ解決していない。あるいは、アリスにとってははじめから「アリス」という固有名がアリス自身を指示しているかどうかは問題ではなかったのである。『アリス』において、ドゥルーズは「アリスが同一性を取り上げられてしまう試練」ともいうが、これは「固有名の喪失」とは必ずしも同じ問題ではない。アリスにとって問題であったのは固有名ではなく、あくまでも同一性であった。以下ではこのことを確認しよう。
アリスは不思議の国の住民から "Who are you?" 型の問いかけと "What's your name?" 型の問いかけとを受ける。アリスがもし日常世界にいるならば、本節の冒頭で見たとおり、これらのいずれの問いに対しても、彼女が自分の名前を名乗ることで十分な返答となったであろう。しかし不思議の国においてはそうではなかったのである。まずは "Who are you?" 型の問いと、それに対するアリスの態度を見てみよう。
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青虫は「お前、誰?(Who are you?)」と言いました。
……「私、私もよく分からないの。今は、少なくとも今朝起きた時は私が誰だか分かっていたのだけど、それから何度か変わっちゃったの」。(『不思議の国のアリス』第五章)
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「でも私は蛇じゃないわ!」とアリスは言いました。「私は、私は——」
「へぇ! じゃああんたは何なのさ!(What are you?)」とハトは言いました。
……「私は……女の子です」。(『不思議の国のアリス』第五章)
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アリスは "Who are you?" 型の問いに対していかなる答えも持っていない。これらは明らかにアリスが〈アリス〉であることを見失っていることを語る例である。自分が〈アリス〉であるということを喪失してしまっているのである。また、アリスが、第二節で取り上げたような束理論的に考えていないことも言えそうである。『アリス』第二章における彼女ならばこの問いに対して「知識がない」ということを根拠に「メイベルです」と答え得るが、ここでのアリスは問いに対して全く答えられなかったり、あるいは「女の子です」と、少なくとも自分に妥当する特徴の一つを挙げるに留まり、同一性を主張する段階には至っていない。
ただしこれを「固有名の喪失」とか「固有名の指示の問題」と考えるのは正しくない。アリスは、アリスに対するもう一つの問い、すなわち "What's your name?" 型の問いに対してはすんなりと答えられるからである。
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ハートの女王はアリスの方を向いて「お前の名前は何というの、そこの子供 (What's your name, child?)」と訪ねました。
「私の名前はアリスです (My name is Alice)、女王様」と、アリスはとても礼儀正しく答えました。(『不思議の国のアリス』第八章)
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このテクストをもって「〈アリス〉への冒険」が終結すると考えてはならない。アリスがハートの女王とこのやりとりをしたあとでも、アリスは自分が何であるのかをまだ捉え損なっているからである。
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「冒険なら、今朝から始まったものを話し聞かせてあげられるわ」とアリスはおずおずと言いました。「けど昨日にさかのぼっちゃうとだめ。だってその時は違う人だったもの」。(『不思議の国のアリス』第十章)
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アリスは「アリス」という名前が自分を指示していることを理解している。ただしハートの女王に対するアリスの返答も注意して理解しなければならない。アリスは "My name is Alice" と返答しているのであって、"I am Alice" とは答えていないのである。おそらくアリスは "I am Alice" と返答することはできなかったであろう。不思議の国でのアリスは、「私の名前が何か」ということを理解していても、「私が何か」ということを喪失してしまっている。これが『アリス』における固有名と同一性との区別である。
アリスが不思議の国で失った同一性とは、第二節で見たような性質の束のようなものではなく、「それによってアリスがアリスであるもの」である。〈アリス〉という同一性は、アリスを、他のいかなるものでもなく、アリスそれ自身として成り立たしめるものである。サン・ヴィクトルのリカルドゥスという 12 世紀の哲学者は、人間を人間として成り立たしめているものを一般に「人間性」と呼んでいたことから、ダニエルをダニエルとして成り立たしめるものを「ダニエル性」と表現した。この表現を借りれば〈アリス〉という同一性は「アリス性」と呼ぶことができる。個体についての哲学で有名なドゥンス・スコトゥスという 13 世紀の哲学者の概念を用いれば、アリスを「これ」であるものとして成り立たしめている〈アリス〉という同一性はアリスの「これ性」と言えるだろう。「〈アリス〉への冒険」の「理想的な」終着点は、「アリス性」であり、アリスの「これ性」であるような、アリスをアリスとして成り立たしめ、他のあらゆるものから区別することを可能にするある種の特性であろう。これが単なる性質の束ではないことはすでに明らかであろう。それは「個体」というものを説明する究極の要素なのである。
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