1. 同一性とアリス

「〈アリス〉への冒険」において通奏低音のように鳴り響いているのは「私は私なのか」というアリスの疑いである。この疑いは、不思議の国でのアリスに生じた、主に二つの変化が原因となっていると言えるだろう。その一つ目はアリスの体が何度も大きくなったり小さくなったりすることである。


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「だって私が私じゃなくなっているんですもの」とアリスは言いました。

青虫は「わからんな」と言いました。

アリスはとても丁寧に答えます。「これ以上は詳しく説明できません。だって私にも分からないのです。一日のうちにいろんな大きさになってわけが分からなくなっちゃってるの」。(『不思議の国のアリス』第五章)

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 第一章ですでに、「私をお飲み」「私をお食べ」と書かれたものを飲み食いすることによって、アリスの体は小さくなったり大きくなったりした。そのほかにも様々な要因で、アリスは十回以上その大きさを変えている。上の引用は、ふつうはあり得ないこうした体型の大きな変化の体験がアリスを大きく動揺させている場面の一つである。この状況を端的に「アリスがアイデンティティを喪失している」と整理できる。以下ではまず、「アイデンティティ」ということばの使用法について整理し、この感想文ではどういう意味でこのことばを用いるのかを確定しておこう。


 アイデンティティ identity ということばは、すでに「アイデンティティ」というカタカナ語で人口に膾炙していることと思う。しかし、それに伴って意味が少し「弱まって」しまっているように思われる。「アイデンティティ」ということばを使うにあたり、例えば次のような例が想像される。


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「君は僕よりもピアノが上手いし、頭もいい。君のせいで僕のアイデンティティが失われてしまうよ」。

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 これは、自分のいわゆる「上位互換」が登場したせいで、それまで自分が有していた社会的なポジション、ないし「キャラクター」が自分に固有のものではなくなってしまった、ということを意味していると考えられる。こういった場合の「アイデンティティ」は、あくまでも「キャラクター」や「他の人からどう見えるか」ということが問題となっているのみである。だが哲学的には、もっと強力なアイデンティティを考えることができる。


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「君の脳が僕に移植されてしまったら僕のアイデンティティが失われてしまうよ」。

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(人格の同一性に関しては種々の議論があるが、)脳の移植によって記憶が完全に引き継がれると仮定すると、この例では自分の思考が完全に消え去ってしまい、人格の同一性が失われてしまうということを語っている。社会的なキャラクターが失われても自分が自分であることに変わりはないが、自分の人格が失われてしまうと自分が自分であることは困難になりそうだ、という点で、これはいっそう強力なアイデンティティであると考えられる。


『アリス』を読む上で問題となるのはこのアイデンティティに近い。ただし、これよりもさらに強力なものである。それは、本来アリスがアリスである限り決して変わることがない、「〈アリス〉であること」である。アリスだけが有しており、他の誰も有していないもの、すべてのものの中から、この特定のアリスだけを選び出すことを可能にするような特性が「〈アリス〉への冒険」では問題とされるのである。


 こうした議論に馴染みのない人には想像し辛いかもしれないので、もう少し補っておこう。「アリス」という名前を持つ人物は数多く存在するし、『アリス』の物語の主人公であるアリスに、容姿や声、性格が似ている人物も数多く存在するだろう。だがそのような「ただ名前が同じ」だけの人物、「ただ似ている」だけの人物の誰も持っておらず、ひとり『アリス』の主人公のみが持っているような特性が、「もう少し強力なアイデンティティ」と私が呼ぶものである。哲学的にはこれを「個体化の原理」と呼んでも構わないだろうし、あるいは「形而上学的なアイデンティティ」と呼んでもよいだろう。こうしたものを、すでに見たような多様な意味を帯びている「アイデンティティ」ということばを使うのを避け、単に「同一性」と呼ぶことにしよう。この同一性を、上のような例で表すと非常にシュールな事態となることが分かるだろう。


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「僕が僕でなくなってしまったら僕のアイデンティティが失われてしまうよ」。

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 これはとてもありそうにないことであり、それだけ「同一性」は他の「アイデンティティ」と比べて根本的と言えるだろう。しかし、この節の冒頭で引用したテクストからも明らかなとおり、このありそうもないことが起こってしまったと考えるのが不思議の国を冒険するアリスなのである。


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「もう! 今日は何もかも変! 昨日はいつもどおりだったのに。夜の間に私は変わってしまったのかしら? ちょっと考えてみましょう。起きたときは同じ私だった? なんかちょっと違う感じがした気もするわ。でも、もし同じ私じゃないなら、「いったい私は誰」ってことになるわ。ああ、大問題だわ!」(『不思議の国のアリス』第二章)

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 アリスがアリスである限りアリスが持っているはずの〈アリス〉という同一性は、第二章の時点で彼女にとってこのように大問題となっている。続く第二節では、アリスの同一性を揺るがすもう一つの要素について触れたのち、アリスの問題を分析し、すこし哲学的な議論にも触れてみよう。

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