第8話 まさかの出来事

 ──市立中央医療センター。


 通話を終えると直ぐに駅に向かって自転車を走らせていた。冷静に考えれば両親に車を出してもらえば早いが、そこまで考える余裕はなかった。無意識に体が動いた。


 必死になって走っている分には良いが、15分ほど乗る電車の中では手持ちぶたさが焦燥感を何倍にも膨らませる。

 電車を降りたら階段を駆け上がって改札へ、駅から走って20分程の距離にある病院まで猛ダッシュ。心が熱くなっているせいか疲労感は全くない。


 救急専用入口。受付に勢いよく手をついて叫ぶ。

「高梨……高梨祥奈が運ばれたと聞いて来ました」


 冷静に台帳をペラペラとめくるスタッフ。


 バタン!! 奥にある扉が力強く開かれた。奥から出てきたのは祥奈の母叔母。ツカツカと近づき僕の右腕を掴むと奥へと引っ張られた。


 処置室前にあるソファーに連れられ腰を下ろすと祥奈の母叔母は震える声で話し始めた。


「今朝、音楽のコンサートにパパと向かったのよ。そこで事故に巻き込まれちゃって……。パパに怪我は無かったんだけど、祥奈が強く腰を打ったみたいで動けなくなってしまったの。未だ検査しているんだけど……」


 顔を覆って涙ぐんでいる祥奈の母叔母。慌てていた僕が冷静になれるほど心配しているのが分かる。


 いくつか置かれている横長のソファーには救急車で運ばれてきた患者の家族が何組も心配そうに待っている。


 処置室から白衣を着た男性が出てきた。首には聴診器ステートをかけ青いビニール手袋をしている医師。ソファーで患者の安否を待っている家族たちの視線が一斉に集まる。


「高梨 祥奈さんのお母さん、どうぞ中にお入りください」


 祥奈の母叔母が力なく壁に手を付きながら立ち上がる。他の家族は一斉に下を向いて患者の安否を気遣ってうつむく。


「謙心くん、しっかり話しを聞いてくるわ。ちょっと待っててね。ごめんね急に呼び出したりして……」

 奥へと入って行く医師に後ろについて祥奈の母叔母が歩き出す。座ったまま祥奈の母叔母を見上げて言葉を返すのが精いっぱい。

「呼んでもらえて嬉しかったです。僕はここで待ってるから何かあったらいつでも声をかけてください」


 処置室に入って行く祥奈の母叔母を見送る。肘を腿に乗せると自然に目線が下がってゆく……ぼやっとした視界が色々な考えを巡らせる。


 脳裏に焼き付いた祥奈のピアノ。制服をクルリと回って見せてくれた可愛らしい祥奈。そして高校に一度も来ていないという祥奈。


 記憶を引っ張り出そうとしても垂れている釣り糸が絡まるオマツリ状態。どれが本当の記憶に繋がる糸なのか……どれが夢の記憶に繋がる糸なのかサッパリ分からない。


建金たてがねさーん、建金謙心さんいますか?」


 二つ折りの用箋挟を脇に抱えた看護師がソファーで待つ家族を見回しながら探している。僕は立ちあがって返事をすると、それを見た看護師は振り返って奥にくるように促される。


 処置室の奥にあるエレベーターで7階に上がる。エレベーターを降りると、『東棟』『西棟』矢印と共に書かれた壁。看護師は振り返る事もなく西棟へと歩み始め、胸につけたカードキーを伸ばして自動ドアを開けた。


 通された場所は一番奥突き当りにある部屋。病室の前で待つように言われる。一番奥突き当りの壁にある大きま窓からは住宅や駅、巨大スーパーなどが小さく見える。


 病室から出てきた看護師が出てくると中へと案内される。

 12畳ほどの病室は左右にカーテンで区切られており、左のカーテンは開けられベッドには誰も寝ておらず、看護師によって右側のカーテンが開けられる。


 ベッドに横になっている祥奈。椅子に座って祥奈の手を握る祥奈の母叔母がいた。カーテンの音に祥奈と祥奈の母叔母の視線が集まる。その様子を見た看護師は病室から出ていった。


「謙心、病院まで来てくれてありがとうね。ちょっと体が動かせなくて寝たままで悪いけど」

 頭だけ上げて笑顔になる祥奈。その笑顔に駆け寄って両手でベッド柵を掴むと覗き込んだ。変わらぬ祥奈の笑顔にホッとしてへたり込んでしまった。


「良かった……無事で本当に良かったよ」

 ベッド柵を手掛かりに立ち上がってもう一度祥奈の顔をマジマジとのぞきこむ。

「やめてよ謙心、なんだか恥ずかしいじゃない」

 祥奈と僕のやりとりをみていた祥奈の母叔母は涙を流していた。ハンカチを目に当ててかなり疲弊している。この時僕は祥奈の身に何が起こっているか分からなかった。


「わたし謙心に話しておきたいことがあるの。お母さんはお父さんの様子を見に行ってあげてくれる」

 祥奈の言葉に素直にうなずくと、ハンカチを目に当てながら立ち上がって病室を出た。


 ベッド脇にある椅子に腰をかける。彼女の話しとはいったい何なのか想像が出来なかったが、元気な姿を見て安心していた。


「祥奈、いったい話って何だい。どんな話しでも祥奈に何事もなかったことだけは本当にうれしいよ」

 祥奈の回復を疑わない僕は心底笑顔になっていただろう。祥奈の顔から徐々に笑顔が消えて真剣な表情へと移り変わっていくが、僕には驚かそうと演技しているようにしか見えない。


 口をつむぐ祥奈。目線が定まらず中空をさまよっている。感じたことのない雰囲気にただならぬ空気を感じて自然と表情が引き締まってくる。


 口を開くが言葉を発することなく口を閉じてしまう。とても言いにくそうにしていることだけは分かる。無言……唯一聞こえる音は病室の外で忙しそうに動き回っている看護師の足音だけ。


 どれほどの時間が経っただろう。5分……10分……この時間が長くも短くも感じられる。


「わたしね……」

 発せられた声は震えていた。少しづつ涙があふれてくる。祥奈の涙にただならぬものを感じた。しかし僕に出来ることは黙って聞いていることだけ。


「わたしね……」

 涙声になりながらも必死で言葉を出そうとしているが口を閉じてしまう。


「わたしね、もしかしたらもう歩けないかもしれないって」

 力強い声。言葉を聞いた瞬間、頭の理解を驚きが上回って言葉をだそうとしても音が出てこない。口だけがパクパクと動くだけだった。

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