2-21 帰還

「あんな力使い果たして、息絶えるみたいなシチュエーションでただ酔っただけ! ああ、もう心配して損した」


 あの大学生三人に運ぶのを手伝ってもらい、警察や巻下の奥さんに事情を説明し、ちょうど坂に入る手前に落ちていたスマホも見つけて、ラティオに連絡した。ようやく旅館前のベンチで二人きりになれたのが、三十分後の事だった。


「警察や巻下さんに説明をするのは大変だったからね」

「うん。本当にごめん」


 風が、優しく包み込むように吹いた。月光は未だに眩しい。


「そういえば聞きたかった。どうして一人で、ナイフを持った男を追うなんて無茶をしたんだ?」


 顔を上げて僚真は言った。


「いやあ、安全地帯までは見張っておこうと思っただけなんだけど」

「うーん。そもそも犯人らしき人間についていくと思うのもおかしい」

「人が死ぬと思ったら、逃げたくなかったからね」


 ふふ、と彼は笑った。


「さっきも言ったが、こっちに来てもその性格は健在だな」


 彼には、出会ったばかりの頃に話したっけ。そう。あれは前世の話。まだ世の中を知らなかった時。シャルルは、その決意を持つようになったきっかけを思い出す。


 シャルル――ナディアが十になる頃だった。まだパルミナードが恨みを全面的に向けられていた時、サンラート大陸諸国で小競り合いが続いていた時の話である。


 隣国ライセーンとの領地争いが激化する中、父が戦線から逃げたことで多量の死者を出した事があったのだ。数だけで見れば、とてつもない大打撃だった。


 彼は恐れたのだ。かの国の、研鑽の積まれた魔術を。そして本隊だけを撤退させ、ろくに伝令なども出さず、そのせいで兵の統率は一気に乱れて大敗を喫した。それがきっかけで国交は正常化したものの、なかば不条理な条約を結びつけられた。かつての大国は、兵の損失とともに衰退をしていくことになる。


 彼は自分の命だけが惜しかったのだ。兵に情報を伝えて一緒に逃げても、充分に間に合うはずだったのに、だ。これは記録や、実際に戦況を見聞きしていたからわかる。


 その事実に直面し、ナディアは父を軽蔑するようになった。故に聖法士として自分の聖法を磨き、戦線に立つこともあった。力の弱い自分でも出来ることをしたかったから。父のように、逃げたくはなかったから。


「わかっている。君の苦悩は知っている。だけど、無茶だけはしないでくれ」

「うん」

「しかし、君はこっちに来てたくましくなったな。前世とは大違いだ」

「あら、レディに向かってたくましいなんて失敬な」

「柔道の帯は?」

「一級の茶帯」

「充分たくましいじゃないか」


 はははと、気兼ねない笑い声が、優しい光溢れる夜にそっと放たれる。誰にも干渉されず、誰の邪魔もしない静かな笑いは、この世界の一画で静かに響いた。


 笑い終えると、車の音が聞こえた。下の道からだ。


「お、もしかして?」


 僚真はコーラの缶を握りつぶして立ち上がる。

 車の音は、真下の道を通り、右へと流れていく。道は一本道のため、この旅館に向かってきているのは間違いない。


「やっぱりか」


 駐車場の入口に現れたのは、見慣れたワゴンの車だった。僚真の車だ。それは目の前に停まり、中から二人の男女が、運転席と助手席から出てきた。


「ジアルード様! シャルルさん!」


 前世と今のごっちゃになった名前が叫ばれる。


「よかった……二人とも無事で本当によかった」


 いつものジャージ姿の梨花が、潤んだ目を拭っている。


「ごめんね。心配をかけて」


 と、シャルルは梨花を抱きしめる。


「全くだ」


 次に姿を現したのはラティオだった。こちらはやれやれと言った表情。


「なにを心配してないみたいな顔してんだよ。運転してる間どうしようどうしようって顔面蒼白だったじゃん」

「当たり前じゃ! 教え子が切り裂き魔かもしれないやつを追ったとか、心臓が止まりそうだったわい!」


 やいのやいのと口げんかする二人。そういえば、普通に隣に座れるようになったんだな、と今思った。


「……たく。あ、そうだ。僚真はちゃんと隣人にお礼を言っておくんだぞ」

「わかってるよ。巻下さんには本当に感謝している」


 切れたガソリンの補充を手伝ってくれたのは巻下哲平だった。燃料切れぎりぎりの車を運転し、マンションに戻って頼み込んだのだと電話で聞いた。


「それよりお前、運転免許証は大丈夫なんだろうな?」

「日本に来ると決めてから、念のため国際免許証も取ったから問題ない」

「なんとも手際がいい」

「そんなことより……今回の事件は切り裂き魔とは関係ないんだな?」

「ああ、全く関係ない。微塵もない」

「ふうん。日本に来たというのは杞憂だったか」


「余計に怖がらせやがってこんちきしょうめ」と、梨花が憎まれ口を叩く。


「だから言ってるだろ――」

「はいはい。最悪は想定しても囚われるな、でしょ」


 はあ、と呆れ顔で溜め息を吐いたが、その後思い出したようにこちらを見る。


「今は何時だシャルル?」

「もう日が変わろうとしていますね」

「よし、そろそろ帰ろう。知人に会ったら面倒だ」

「そうだな。ここで巻下さんの奥さんに会ったら、二人のことをどう説明していいのやら。あ、梨花。携帯ありがとう」

「いえいえ。早く帰って寝ましょう。本当に眠い眠い」

「魔法のことはじっくりと聞きたいところだが、今日は休もう。シャルルも残りの一日、旅行を楽しんでな」

「あ、はい」


 ぞろぞろと車に向かう。まだ足下が覚束ない僚真に、ラティオが近づく。


「大丈夫か?」

「悪い。調子が悪くてな」

「俺が運転するか」

「いや、運転は俺がする。運転手じゃないと酔ってしまうから」

「事故を起こすなよ。それよりも、例の拡散の件だが」

「正直に言っていいか? もう何も巻き込まれたくない」

「やはりそういうスタンスは変わらんか」

「今回の騒動で、より消極的になった。今回はこんなんで済んだが、将来的に考えれば避けるのが無難だ」

「……そうか。そのへんも帰ってから話そう」


 最後の話に複雑な心境になったが、かまわずもう二人は乗ってしまった。


 車を見送り、再び夜は沈黙する。虫の音もなく、ささやかな風ばかりが自己主張している。旅館に戻ると、ロビーには誰かが置いていった新聞があった。その紙面には、あの切り裂き魔の文字がある。


 結局この事件の真相は何だったのだろう。単なる愉快犯の仕業なのだろうか。だとしたらインド、中国の日数の短さが気になるが。


 僚真はこの事件の犯人を、サザンカ・リヴァイツィーニだと考えていたらしい。クラクルスではとっくに死に、こちらに生まれ変わった。


 確かに考えられることだ。彼の魔法も身体能力を強化する類いのものだったはず。奥羽山脈を短い時間で走り抜けられる例を直に見ているのだから、不思議なことではない。


 なぜか使うことができた魔法、そして色んな人間の生まれ変わり。前世の残滓とも言えるそれらを思いながら、シャルルは部屋に戻った。

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