2-19 逃走
闇の中を行く。時折月光を避けながら、前の男を追う。幸いにも視覚は確保されて見えやすいが、逆に相手側もこちらを認識できるという証拠。音を立てないよう、離れてついていく。
やはりナイフだ。何度も確認しているが、光にちらつく刃がある。本物なのは間違いない。そしてウエストポーチを左腰に付けているのだが、そこのレンズが月光を反射した。はっきりとしないが、形状からしてビデオカメラの可能性が高い。
まさか本当に切り裂き魔? 直近の事件は中国で起きている。それにビデオカメラとナイフ。もしかして、という気持ちが、彼女の中で強くなっていく。
どうにかできるか心配になってきた。警察のサイレンの音などもう聞こえないし、だいぶ旅館方面からも離れてしまっている。
数分ほど歩いたところで、一気に茂りがある場所に出る。刃物を持った男は、ポケットからスマホを取り出した。何を確認しているかと思う暇もなく、すぐに茂みをかき分けて、さらなる闇の奥に消えていく。
まずい。あそこを通ったら音でバレてしまう。別のルートを探らないと。周囲を注視してみると、ちょうど茂みの前で左右に道ができていた。いや、道などというのもおかしい。ただ木や草がない場所、というだけである。シャルルは直感で、右に歩を進めた。
なるべく茂みに沿って歩く。音を聞くためだ。それでおおよその位置がつかめればいいと思ったが……ここで別の音を拾った。
「……!」
「――……」
話し声だ。分厚い葉の壁に遮られよく聞こえないが、確かに人の声。しかも二人以上。さっきのカップル?
「おせえよ」
「悪い。迷ったんだよ」
男性二人の会話がかすかに聞こえてきた。二人の会話? だとするなら、先ほどのカップルではなさそうだ。ここで、なかなかに最悪の事態を想定する。
もしかして、切り裂き魔は二人いる?
この言い方は正しくない。正しくは実行犯と撮影者に分かれているのではないか。ニュースでは犯人の素性は一切明かされていない。ただ二人だとしたら、容疑者が口をそろえて証言するのではないか。だがそう考えないと、今の会話は成立しないが。
「きゃ!」
ここで現実に思考を戻す。短い女性の悲鳴だ。空虚な暗闇の森の中、はっきりと耳に届いた。
恐れていた最悪の事態が発生した! 忍び足で歩いていた足を小走りにし、茂みに沿って声を聞く。もう声は聞こえない。話し声も聞こえない。茂みは思ったよりも横に幅広く展開されており、前に進ませてくれない。音を覚悟で抜けようかと考えた時、ようやく向こう側に空いたスペースが出てきた。
物陰に隠れ前を見る。茂みの奥は、ぽつぽつと草木が生えているだけで、今まで来た道よりよっぽど開けたスペースだった。ただその中で一つ、一際月光に照らされる箇所があった。そこに人影が二つ見える。一人は倒れており、もう一人は何かを構えて見下ろしている。さっきの深く帽子を被った男。構えているのは、ビデオカメラだ。
最悪の事態は、当たり前のように目の前に現れた。あれは完全に、切り裂き魔のやり口だ。足の腱を切った被害者を撮影するもの。しかし違うのは、影になって見えない被害者が、一切動かないということ。
これは手遅れか……いや、諦めるわけにはいかない。
……近づく。直近の事件で殺人を起こしている犯人に、一歩一歩と近づいていく。犯人はやはり、さっきまでつけていた人間だ。帽子を深く被り、ナイフを持ち歩いていた男。近づくごとにそれが確信に変わっていく。そしてもう一つの確信が、全景が見えたことでわかった。
うつぶせで倒れているのは、先ほどのカップルの女性だった。足のアキレス腱部分からは血が出ており、どす黒い傷が中心部を横一線に引いている。ナイフはこれ見よがしに背中の上に置かれ、まっさらだった白シャツを真っ赤に染めている。
明らかに足の腱以外も切られている。思わず目をそらしたくなったが、よく見てみると、若干背中が上下しているのがわかる。
よかった。息はある。
だが問題は……今目の前にいる男だ。自分の嗜虐心を満たすためだけにこんなことをするのは許せない。ましてやあんな若い子に、あんな傷をつけるなど。
……カップルのもう一方はどこに行ったのだろう。逃げたのだろうか。
スマホがあれば巻下さんに連絡できるのに、と手遅れな後悔はそっと閉まって、目の前に集中する。
犯人は、まるで芸術作品でも撮っているかのような表情。顔は真剣そのものだ。虐殺を楽しむようなものではない。それがかえって不気味な様相を色濃くさせていた。
ただ顔や風体を見てみると、どう見ても日本人だ。外国で犯罪を重ねた男は、日本人だったのか――。
「え?」
ふいに声が真後ろから聞こえた。予想だにしない出来事に、全身の筋肉が硬直し固まった。
「ちょっとあんた」
振り向く間もなく肩をつかまれる。
「ぎゃあ!」
シャルルは短い悲鳴を上げる。危機的な状況を察知し、肩をつかまれた手をがしっとつかんだ。体に引き寄せ、相手の体が背中にひっついたと同時に腰を曲げる。自分の肩を支点とし、自分よりも大きな相手を放り投げた。
「ぬわ!」
草木を揺らし、地面に背中から落ちた相手は、すぐにはっとしたように頭を上げた。
「な、なんかに投げられた」
しまった! 急に来るものだからつい護身術が。すぐに頭を引っ込める。
「どうしたんだよお前」
「い、いや。金髪のねえちゃんがいたんだ!」
茂みに沿い、半ば這うような姿勢で向こうに行く。
「何を言ってるんだお前は」
「いや、今投げられるところ見ただろ! めちゃくちゃ綺麗に投げられたぞ」
危なかった。父親に習っていた柔道が役に立った。
さっき聞いた話し声は、やはり協力者だったか。どう協力しているか定かではないが、二人はさすがに分が悪い。
「おい、どこにもいないぞ」
「おかしいな。ここにいたはずなのに」
ついさっきまでいた場所から声がする。これから自分を探すつもりなんだ。手と足を動かし、器用に茂みを伝って行く。
先ほど犯人が通った深い茂み。あそこまではだいぶ距離がある。行けば確実に見つかるだろう。浴衣だから走りにくく、明らかに自分より年下に脚力で勝てるとも思えない。
だがしかし、このまま私という餌に釣られて彼女から離れれば、なんとか時間を稼げるのではないか。それだけが救いだ。
この間に警察が来てくれればいいが、二人の話し声以外には何も聞こえない。どうする……。
「え? 人がいたの?」
「ああ、絶対にいたよ」
茂みの終わりが近づいてきた。もう身を隠せる場所はない。そして不幸なことに、木々もなくぽっかりと大穴が空いて空が見える場所だった。
「勘違いでもなんでもない。絶対にいたはずだ」
「こんな所を見られて逃げられでもしたらたまったもんじゃない。茂みとかを探そう」
どうしよう。ここにいてはいずれ捕まってしまう。逃げたとしてもすぐ追いつかれる。結局時間稼ぎも出来やしない。
「こっちにはいない。向こうに行ってみよう」
来た! 足音がこちらに近づいてくる。どうしよう! このままでは……。
心臓の鼓動だけは速くなり、体は身動きができない状態だ。何をするにも八方ふさがり。大声を出してみようかと思ってみても、声帯が強ばるみたいに開かない。
このままでは見つかってしまう。殺されてしまう。
話し声も足音もはっきりと近づいてくる。覚悟をして目を瞑った、その時だった。
「シャルル!」
はっと目を開けた。
今の声は……僚真?
いや、こんなところにいるはずがない。だけど今の声は……!
「シャルル! どこだ!」
僚真だ。いつも横で聞いている声だ。
「僚真! ここ」
閉じていた声帯が、一気に開く。
瞬間、森の奥にぼんやりと光が見えた気がした。温かな光。落ち着く橙の光。そんな不思議で希望に満ちた光が、徐々にこちらに近づいてくる。
光は次第に消えていき、代わりに駆ける足音が聞こえる。そして現れたのは、まさしく僚真だった。ポロシャツ短パンという格好でやってきた。
「シャルル。無事か」
「うん……!」
もう隠れ潜む必要はないと見て、すぐに彼の元へと駆け寄った。その姿はさながら、戦場に揺らめく
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