2-18 切り裂き魔との攻防

 いたた……。


 お尻の痛みはまだ引かない。ずりずりと土の摩擦を一身に受け、尻を見れば赤く腫れて熱を持っているはずだ。


 あの時、警察が来るまではなるべく離れないように歩いていたら、突如として崖に足を取られて真っ逆さまに落ちてしまったのだ。崖下から生えた木を草むらと勘違いしたのが原因だった。前にいた光がこちらに向かれた気がして、思わずぱっと横に隠れようとしたのだ。


 幸いにも、周りの草木に多少体をくすぐられて落ちていったものだから、ほぼ無傷の状態である。お尻以外は。


 ただ、その途中でスマホを落としてしまったらしく、今どこにあるかわからない。これでは巻下さんにも連絡が取れない。


 どうしよう。犯人を逃したどころか、危険地帯に足を踏み入れてしまった。


 今目の前に広がるのは、木々の少ない広場のような場所。淡い月光が、美術館の淡いライトのごとく、あちこちをぼんやりと照らしている。シャルルは崖側に潜めている。あちらから姿は見えないだろう。

 後ろを振り返る。見上げれば勾配はきつく感じてしまう。鬱蒼とした木々が邪魔で上が見えないのもあるだろうが、明らかに上と距離があることが窺える。登ることも、確認することもできない。ただ、さっきパトカーのサイレンの音がかすかに聞こえた。このまま待っていれば、助けが来るだろうか。


 だがやはり気になるのは、ナイフを持った男。明らかに森に人がいて、そこに向かって歩を進めていた。今は全く別の所に行ってしまっているだろうが、何も起きないのを願うしかない。


「ねえ、すごく恐いんだけど」


 突如声が聞こえ、思わず身をすくめる。


「ここまで真っ暗な場所とか聞いてないよ」


 女性だ。左手の方から聞こえてくる。


「まさかビビってんの? 大丈夫だって、何も出やしないよ」


 次いで男の声。比較的若い声だ。そして二人は月光に照らされて姿を現した。


 同じ年頃の男女だ。夏らしく白シャツにジーンズを穿いた男と、同じような白シャツとホットパンツの女性。男性の方はショルダーバッグをかけている。見た感じは大学生のカップルといった感じ。手にはそれぞれ懐中電灯のみ。さっきの光は彼らだろうか。


「ここ?」

「いや、場所はもうちょっと奥」

「ここでもいいじゃん。ちょうどいいって」

「ダメだって。ほら、行くぞ」


 そう言って二人はさらに奥、深い闇に溶けていった。


 ……肝試しだろうか。ナイフを持っている男が同じ森にいるのに、悠長なものだ。先ほどのサイレンの音で、犯人が諦めてくれればどんなにいいか。


 その思いは、数分後にかき消されることになる。


 足音がした。草を踏む音、かき分ける音が聞こえた。そして光の中に現れたのは、右手にナイフを持った男だった。


 全身が固まり、背筋に寒いものが走った。闇の中で息を飲み、左手から右手へ進んでいく男を、声を殺して観察する。


 幸いにも、相手の男はこちらに気づきはなかった。つばのある帽子を被っており、表情は見えない。体型は標準よりやせており、背はそれほど高くはない。黒シャツに短パン、サンダルといった軽装だ。これだけを見れば普通の青年だ。だが、右手にはナイフがある。それだけは、異質だった。


 やがて彼も消えていく。先ほど二人が入ったのと、全く同じ場所に入っていく。


 ……あいつが犯人か。あれが切り裂き魔だと決まったわけではないが、ナイフを持って二人の後を追っているらしいことはわかった。これは言い切っていい。


 どうする? このまま警察を待っていいものか。このままだとあの二人がやられてしまう。


 逃げるな。私が動くことで命が救われるなら、動いた方がいい。


 思い立ち、シャルルは固くなった体をなんとか動かして後を追っていった。


     ◆


「灯油切れの警告から何キロ走れるんだ」

「確か最大五十くらいとは聞いたことがある。アメリカと日本じゃ差があるだろうが」


 五十キロか。思ったよりも長く走れるが、もう夜でガソリンスタンドも閉まっている。


「旅館までの距離は六十五キロです。どう考えても無理です」

「クソ! こんな時に!」


 わかってる。ガソリンの残量をちゃんと確認しなかった俺が悪いんだ。だがこうも最悪なタイミングにぴったりだと、運命というものに拳でもお見舞いしたいくらい苛立ってしまう。


 どうする。このままじゃシャルルを助けられない。電話にも出ないし、折り返しもない。まさか捕まっているのか。それとも……。


 ……これじゃあ、アイライル会戦で彼女を失った時と同じじゃないか。

 強敵に手こずっているときに、彼女は変わらず負傷者を助けていた。種族関係なく助けた。事情を知らないカルタナ族は変わらず抵抗していたが、それも時が過ぎて次第に収まってきた。


 あいつ……勇者の言葉を借りるなら、彼女はまさに光だった。敵味方ともに注目する光だった。しかし、故にと言うべきか、彼女が一瞬、ほんの一瞬だけ俺から離れた時、何者かの矢が彼女を貫いた。白いドレスは血に染まり、岩肌に一切の受け身も取らず倒れた。骨が砕けた音がした。


「後ろにガソリンタンクは積んでないか」とラティオ。


「そんなもんは積んでいない」

「なら通りかかる車を全力で止めて、ガソリンを分けてもらうしかない」


 それしかないと思い、車外に出る。

 だが、夜のこの道を通る車はほとんどない。バイパスの外れの外れ、長距離トラックも向こうに流れていくはず。


 途切れ途切れの街灯が照らすだけの道を何度か右往左往しても、一切車が通る気配がなかった。仮に来たとしても、都合良くガソリンを分けてくれるか、そもそもそういう容器や機械を持っているとも思えない。


 わらにもすがる思いで道を見つめ、刻々と時間は過ぎていく。この残酷な針の進みが、彼女の死を告げるようで。そこで徐々に生気が消えていく、前世の彼女の姿がフラッシュバックしてしまう。


     ◆


 クラックを吹き飛ばし、彼女の元に近づくと、彼女は虫の息だった。口から血が垂れ、息が上がり、生気の光のない目でこちらを見ていた。

 聖法というものは、基本的に自分には掛けられないものだ。故に聖法士ラフォリアは、複数組みで動くのが一般的である。だが……こちらの聖法士はみな前線へと駆り出されている。こんな遊撃隊に割く人員などありはしない。


「ジアルード……」

 消え入るような声で彼女は言った。


「喋るな。傷口が開いてしまう。待ってろ、今救護隊を」

「もう無理です……私にはわかるのです」


 掠れているが、確かに意志が宿る声。


「そんなことはないさ。諦めるな。ついさっき言ったばかりだろ。俺の夢に協力するって」

「本当に……残念です」

「弱気になるな!」


 口ではそんな事を言っているが、もう助からないのは目に見えていた。生暖かい液体が、手を伝う。流れる量があまりにも多い。


「でも最後に……あなたに抱かれて死ぬのは幸運ね。ほんとに愚かで、か弱い女でしたが……」

「そんな事はない! 君は……君は……今まで出会った中で一番素晴らしい女性だった。これからもっと話したかった。もっと一緒に過ごしたかった」


 どんなに願っても、叶うことはない。辺りに響く声、金属ががちがちに競り合う音。その一切が、この状況を救いがたきものにしている。


「嬉しいです……ほんとに。私も……あなたと」

「だったらこうすればいい! カルタナには生まれ変わりという言い伝えがあるんだよな」


 こくりと、力なく頷いた。


「生まれ変わったら、君を探し出して守ってやる!」

「……」

「途方もなく、果てしない探索となるだろう。しかしどれだけの年月、労力を掛けてでも探し出す。いるという希望だけで進んで見せよう。約束を胸にあがいて見せよう。それがたとえ、どれほど困難な道になろうとも」


 極地に至れば、こんなロマンチシズムなことも言ってしまうのか。死線の契りなどというものが、俺の口から出たのが驚きだった。

 その言葉にうっすらと笑みを浮かべ、彼女は深く、永遠に覚めない眠りに落ちていった。


     ◆


 世界に絶望した瞬間だった。二種族の争いは当たり前のように起こり、それによってナディアも失ってしまった。自分がどれだけ願っても、種族の溝は埋まらない。


 一体どれだけ親書を書いたと思ってる。何度も文面を考え、送り方も考え、幾枚もの紙を無駄にした。それでようやく開通した海のルートは、アイライル会戦に利用されたようなものだ。これがどれほど口惜しいか。命を失った数を思うと心が張り裂けそうだった。


 結局、何も変わらない。何をしても、この二つは相対するものなのだ。初めて愛した人を失い、激化する争いに失望し、絶望し、憎み、ただただ体の限界まで暴れた。


 ……もうあんな思いはしたくはない。まるでアイライル会戦の繰り返しではないか。


「お、おい」


 この世界で彼女と再会した時、まさか同い年になるなんて思いもしなかったと、彼女は笑った。そして二日しか接することができなかった前世の埋め合わせをするように、現世では常に彼女と一緒になった。


「僚真さん……!」


 体が熱くなっていく。彼女との思い出とともに、体の芯から熱くなっていく。


 宮城の松島、函館の五稜郭、沖縄の海、そして彼女の生まれ故郷のフランス。それらの思い出が脳内に焼き付いて離れない。


「僚真」


 熱い……! 体が熱い! 嫌だ。また生まれ変われる保証なんてどこにもないのだ。ここで失うわけにはいかない……絶対に!


「ジアルード!」


 懐かしい名前にはっとする。そうして二人の方を見た。


 梨花も、ラティオも、等しくこちらを見ている。しかし様子がおかしい。目を皿のようにして、こちらを見ている。


 ここではたと気づく。何やらオレンジ色の光が辺りに溢れている。まるで焚き火の光のようなものが、脇に止めたワゴン、山から飛び出た木々、道路の灰色や白線までくっきりと映し出している。これは……俺から出ているのか?


 はっとし両手を見る。手首から両腕に掛けて、血管がそのまま露出したような管が巻き付いている。真っ赤な管を中心に橙色の光を放っている。


「お、お前……それは」


燎化りょうか! 燎化ですよジアルード様! まさしくジアルード様が使っていたものじゃないですか!」


 そうだ! これは燎化だ! 二十七年ぶりに見たそれは、あまりにも異様な光景だった。だが、戸惑っている暇はない。なぜ使えるようになったかを考える暇もない。


 足に力を入れるように念じる。すると腕の管はするすると引っ込んでいき、足の付け根あたりから足の先まで熱を持ったように熱くなる。


「梨花、スマホを貸してくれないか?」

「は、はい」


 恐れつつも、マップを開きっぱなしになったスマホを渡してくれた。


「ありがとう」


 頭が冴え渡る。これからどうするか、この魔法をどう操るかが全てわかった。


「助けに行ってくる。二人とも、家で待っていてくれ」


 そう言い残し、足を蹴り上げて山の中へと入っていく。

 蹴り出したスピードは恐ろしく速く、森が前から後ろへ猛スピードで流れていく。土を蹴り、木の枝を避け、不自由な二十七の体がまさしく前世に戻ったように軽くなる。


 走る。

 走る。

 走る!


 ああ、あの時と一緒だ。空港の彼女に会おうと急いでいたのと一緒だ。しかし違うのは、疲れの具合、今の切迫した状況、生身の常人では決して見ることのできない景色のスピードである。


 熱くなった体に反し、頭はクリアだった。


 足は強大な膂力りょりょくをもって地面を蹴り上げ、しかし正確な位置をつかみ素早く方向転換する。トンネルよりも高い位置を越え、最短距離である山を越え、すぐに下山の位置へと入る。


 これほどまで長い距離を走っているのに、一切疲れない。無駄なことは一切考えない。心はただ一つ、シャルルを助けるための最善の一手と、その無事だけだった。

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