2-17 宮城旅行3
「もしもし……はい……ナイフの男が森に……旅館は青葉区の……はい、よろしくお願いします。他にも人がいるみたいなので急いでください」
警察への電話を終え、再度坂の下を見る。
男はどうやら闇に消えたよう。しかし、懐中電灯でも持っていたのか、ゆらゆらと動く光の点が前に進んでいくのがわかる。先ほど奥で見えた明かりの方は、もう見えない。
……これってまさか。
ナイフと言われると、やはり切り裂き魔の文字が頭に浮かんでくる。ただあれは外国の話だ。日本にいるわけがない。しかし諸外国を渡り歩いて犯罪を重ねているのだから、日本にいてもおかしくはない……のか?
仮にその犯人でないにしても、今の男はどうしてナイフなどを持っていたのだろう。こんな暗闇の森に何の用が? この森に施設などはなかったはず。ただの山しかない。ここから見た限りでは、ロッジなどの小屋もないはずだ。あとは市街地までの遠い距離を、森がひしめき合っているだけだ。
警察は、おそらくまだ時間が掛かるだろう。ここで待つべきだが、やはり気になる。
思い立ち、目の前の坂を、さながらスキーで下りていくみたいに、器用に足の位置を調整して下へと下っていった。無事体勢も崩れることなく、アスファルトへとたどり着く。すぐ目の前には、ぽっかりと口を開けた闇。光はちろちろと見えている。
大丈夫。ちょっと様子を見るだけ。警察が来たら即座に逃げられるくらいの距離までは、様子を見ておきたい。第三者が入る事で、犯人の計画が狂って逃げ出すかもしれない。せめて、せめて安全な位置までは。
逃げるな。人が傷つくかもしれないのに。
意を決し、スマホを握りしめて森の中へと足を踏み入れた。
これが、僚真たちがアップルパイを食べ始める頃の事。ベルの音が鳴る三十分前のことだった。
◆
ベルの音とは、こんな時間に誰だろうか。そう思い俺は、未だに甘い匂い漂うリビングを出て玄関へ。魚眼レンズを覗いてみる。
……巻下さんだ。
「どうしたんですか?」
すぐに開けると、何やら神妙そうな顔をしたオールバックの老人がいた。手には、つい最近初めて買ったばかりのスマホを持っている。俺がアドバイスしたやつだ。
「妻から電話がありましてね。その、神代さんに用があると」
「え、どういうことです?」
「とにかく、話してみてください」
そう言われ、スマホを差し出される。意味がわからなかったが、ひとまず言われたとおりに耳に当てる。
「もしもし?」
(あ! 神代さん! 大変なのよ)
巻下さんの奥さんだ。何やら慌てている様子。
「どうしたんです?」
(シャルルさんがいないの!)
「は?」
電話口の言葉を処理しきれなかった。
(十時になっても部屋に戻らないから心配していると、外からパトカーの音が聞こえて外に出てみたの。そしたら、ナイフを持った男が森に入ったという通報があったんだけど、通報者がいないって話になって)
「え……」
(通報者はおそらくシャルルさん。でも、どこにもいないのよ! 旅館にも道にも)
ちょっと待ってくれ。本当に、考えが追いつかない。え? シャルルがナイフを持った男を見つけて通報した。それで彼女はいない? どこに行ったんだ?
まさか……ナイフの男の跡をつけて森の中に?
正義感の強い彼女なら考えられる。だが、警察を呼んだのに戻れないほど進んで行くとは思えない。そんな頭が悪いヒロインみたいな事をしない。せいぜい戻れる範囲での追跡くらいしかしないと思うが……だとしたら、なぜ戻らないんだ?
それに、ナイフだと? まさか……切り裂き魔?
「もしかしたら、ナイフの男を捜しに森に行ったのかもしれません」
(そ、そうなのかしら。今は警察も森の中を探索しているわよ)
「なら……警察に任せるしかないですね」
本当にそうか? もしそのナイフの男がサザンカ・リヴァイツィーニだとしたら、何をされるかわかったもんじゃない。直近の事件では人を殺している。
「すいません。情報をありがとうございます」
(もし進展があったら、また電話するわね)
ここで電話を切り、巻下さんに返す。
「シャルルさんに何かあったんですか?」
「はい……ちょっと、行かなければなりません」
「どうしたんですか?」
振り返ると、廊下から梨花が尋ねてきた。ちょっと怖がるみたいに、おそるおそると。
「シャルルが危ない」
「え!」
「すぐに行かないと。巻下さん、電話ありがとうございました」
「え、ちょっと!」
静止の声を聞かず、玄関脇に置いていた鍵を取ってすぐに廊下を駆け出した。階段を下り、すぐに外に出て駐車場へと向かう。
「ま、待ってくださいよ」
後ろから梨花の声が聞こえて振り返る。なぜか会話の内容を知らないラティオも来た。
「シャルルさんがどうしたんですか?」
「事情は車で説明する。乗れ」
「家の鍵は?」
「そんなのどうでもいい。戻る時間も惜しい」
会話を遮って強引に乗り込むと、二人も続いて後部座席に乗った。それを確認し、エンジンを入れる。ここから宮城へは……と。カーナビを入れる手間も惜しい。目処をつけてさっさと出発した。市街地の闇を進んでいく。
「え! シャルルさんがナイフを持った男を追った!」
「まさかそんなことが……」
走っている途中で二人に説明する。そろそろ山のふもとの西バイパスに着く頃だった。
「シャルルさんと連絡は?」
「さっきから連絡はしてるんだが出ない」
と、ラインを送り続けているスマホに目を落とす。
「ま、まさかそいつって……」
「わからん。ただ、どっちにしろ危険な状況には変わりない」
「ダメだ。電話をしても出ない」
すぐ後ろからは、ラティオの切羽詰まった声が聞こえる。
「どういうことだ? なぜ電話に出ないんだ」
「とにかく急いだ方がよさそうだな」
そう言いさらにアクセルを踏み込む。急げ、急げ! スピード違反になっても構わん。今はすぐに向かわないと。
「梨花。旅館の詳しい場所をナビで検索してくれ。名前は――」
「あの……」
「なんだ!」
「すいませんこんな時に。さっきからガソリンメーターの所にずっとランプ点いているんですけど、危ないやつじゃないんですか?」
はっとしメーターの方を見てみると、給油機の形をしたランプが明滅を繰り返していた。
「あ、ガソリン……」
オレンジの明滅を見てゾッとした。メーターは完全に「E」を差しているのも今気づいた。
ここに来て大誤算。この土日で長距離移動していたのが仇になっていた。
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