2-9 ナディアという女性
暗い謁見の間から、朝日に目覚める。
ん……珍しい。前世の夢をがっつり見るなんて。思い出すことは多々あれど、夢として出てくるのは子供の時以来だ。
あの場面はあれだ。勇者がくっさい口説きをするシーンの直前だ。城の警備、この世界でいう監視カメラを管理するリリムールを久しぶりに思い出した。ちょっとネガティブが入っているあいつは、二十七年経った今も元気に暮らしているだろうか。
「えっと、前々から言ってたけど、今日から泊まりに行くのね。二泊三日」
「温泉でしたっけ?」
「そう。宮城にあるやつ」
廊下に出ると、梨花とシャルルがリビングで話をしているのが聞こえた。ラティオはまだ来ていないようだ。洗面台に行き、顔を洗ってリビングに行く。
「おはよう」
「あ……」
ん?
扉を開けると、二人がこちらを見て固まった。俺が入った途端、空気が変わったみたいに部屋が静まった。
「おはよう……」
シャルルがようやく口にした。なんか、無理をしている感じがある。
「出発は?」
「もうすぐ。朝食はどうするの?」
「トーストで済ます」
そう言い、ソファにどかりと座る。
「荷物は?」
「もう用意してある」
「忘れ物はない?」
「ない」
「本当に?」
「……本当に」
肝心な物は忘れないが、ちょっと困る物はすぽんと抜け落ちる。シャルルはそんな妻だ。だが普段は、こんな機械みたいに淡々と話したりはしない。
「一応出発前には確認しておくんだぞ。昼食は、用意してある?」
「用意してあるからそれ食べてね。夕食とか明日以降は外で食べて」
「わかった。梨花、何食べたい?」
「後で話しましょう。それでは……」
そう言うと、万年ジャージ姿の彼女は、なぜかいそいそとリビングを後にした。
今度はシャルルが立ち上がる。彼女も出るのかと思ったが、そのまま俺の対面に座った。
……二人とも様子がおかしい。なんか気むずかしい顔もしているし。
「どうしたんだ?」
「旅行に行く前に、話したいことがあるの」
気むずかしい顔のままだ。こちらを諫めている感じというより、どう切り出すのか迷っている感じ。なんだ? 一体何が始まるんだ。
「話したいこと?」
「ええ、そう。話したいこと」
ちょっとうつむき、言葉を続けた。
「私ね、人の趣味には寛容なつもり。人の好みなんて千差万別、三者三様。でも、でもね。こればっかりは確認しておかないと、心の収まりがつかないというか……」
「なに?」
「『Baby kids』っていうお店なんだけど」
瞬間、全身の毛が逆立つような恐怖が走った。全身の毛穴が全て限界に開き、すっと冷気を吸い込んだように、寒さをやたらと感じた。
同時に、今何が起こっているのかを瞬時に把握した。
「ま……待ってくれ。たぶん誤解している。まず、どこからそんな店の名前を知ったの?」
「昨日パソコンで調べ物をしようとしたら、ブラウザが正しく終了されていません。復元しますかって注意があって……それで」
そうだ! いつものくせでサイトを開いたまんま電源を消したんだっけ。それが復元されて……あの店のサイトが目に入ったのか。
「いや、違う。知り合いがそんな名前の店に行ったって言うから、何の店か気になって開いただけなんだ」
我ながら筋の通る言い訳ではないか、なんて考えたが、シャルルの顔はまだ難しい。
「これ……」
そう言って机の下から取り出されたのは……あの名刺だった。
存在を認識した瞬間、声帯が引きつったみたいな、掠れた甲高い声が出た。
どうしてだ! 昨日渡すに渡せなかったからビリビリに破り捨てたはずなのに、なんでセロテープで見事に復元されているんだ!
「これって、直接店に行かないともらえないやつよね」
「いや……それは」
まずい! 早く釈明しないと非常にまずい! なのに、口が動かない。二つのありがた迷惑の復元が、俺を窮地へと陥れている。
落ち着け……落ち着け……昨日見た情報で説得ができるはずだ。
「あの店は、今年の二月にオープンしたものなんだ。よおく考えてみてくれ。俺は今年に入って、東京はおろか関東圏にすら行ってないんだ。出張で行ったのは京都や愛知といった西日本だ」
「そういえば……」
「しかも出張は長い滞在ではなかったから、その間に東京に行くのも無理だぞ。写真も送ったぞ。何なら会社の人に今から抜き打ちで連絡しても構わない」
「ふむ……」
「俺にはあんな趣味はない。そもそも物理的に店に行くのが無理なんだ。その名刺は知り合いから面白半分に受け取ったんだが、後で調べてヤバいと思って処分したんだ。執拗にビリビリに破いたのも、誤解されないようにだよ」
途端、シャルルの顔が普通になった。表現としては不適切かもしれないが、とにかく普通! 普通になりました! あんなベテラン取調官のような顔に比べたら、断然普通。
「うん……そうだよね。物理的に不可能だよね」
安心しきったのか、深く息を吐いた。
「よかった。本当によかった。夫にえも言われぬ性的嗜好があるかと思ったら気が気じゃなかった。これで安心して旅行に行ける」
「そんなに思い悩んでいたのか……」
こちらも風船が萎んでいくみたいに息を吐いた。徐々に体が沈んでいく。
「夫の歪みに歪んだ性的嗜好への失望と、こんなことで失望してしまう自分の矮小さへの失望が、もうミルフィーユみたいに重なってわけがわからないことに」
「安心しろ。俺のフェチは昔から変わらんから」
「すらっとした足の黒スト」
「そうだ。だからあの店が、俺の好みと全くの的外れだとわかるだろ?」
「うん。うん、私が間違っていた。ごめんね。変な誤解しちゃって」
俺ですらこの反応なのだから、あいつがこの店に通ってるのを知ったら卒倒するんじゃないか。絶対に胸に秘めようと、心に誓った。
「胸のつかえが取れたところで、荷物の最終確認でもしようか」
「わかった」
その後、案の定廊下に突っ立っていた梨花を横目に、部屋に戻って荷物の確認。ひとまず財布とスマホ、充電器さえあればいいくらいの気持ちでチェックしたが、特に漏れは無かった。一つ目のチェックで全く漏れがないのはちょっと珍しい。
「じゃあ、行ってくるね。月曜日の夜には帰るから」
「いってらっしゃい」
「気をつけて」
梨花とともに見送り、夏日に映える白ワンピースを着た乙女は、扉の向こうへ消えていった。
「さて……」
見送った後、
「名刺を復元したのはお前だな?」
梨花を問い詰める。
「あ、バレました?」
「やっぱりな。シャルルが目聡くゴミの紙片まで注意深く見るとは思えん」
「いや、燎王様にそんな趣味があるとは思えないし、証拠隠滅にしても雑だなと思ってたので、自信をもって話し合おうってシャルルさんに言いましたよ」
「余計なことをするなよ! 一歩間違ってたら大変なことになってたんだぞ」
「いやいや。このままだったら誤解されたままでしたよ。サイトを見つけたのは私のせいじゃないし」
「う……それを言われるとな。ただまあ、俺があの店に行ってないことは証明できたのはよかった。お前も廊下で聞いていただろ?」
「はい。途中フェチなんていらん事まで聞きましたがね」
「……それは忘れろ」
小言を言いながらリビングに戻る。風が出ているらしく、カーテンが膨らんでいた。
「窓閉めてクーラー点けましょうよ」
「今日はまだ涼しいからそのまま。まずは室内の温度を下げないと」
「ケチ」
「昼前には点けるから」
「しかし、普通にカーテン半開きで窓も開けっ放しですか。都会じゃ考えられないですよ」
「向かいも普通の民家だし、五階だし、見られる心配もない」
「こういうところは羨ましい」
「うるせえよ。ひとまずこれから何する?」
「これから? ううん、そうですね」
カーテンを開け、どうせならと窓を全開にして梨花は言った。
「特に何もないです。というより、燎王……僚真さんと二人きりになったの、初めてな気がする」
「今までは、誰かがセットでついてたかもな」
「じゃあこの際に聞きたいことがあります」
「なんだ?」
窓際にいる彼女に振り返る。
「えも言われぬってなんですか?」
「え、それ?」
一瞬の沈黙が、カーテンの舞う部屋にやってくる。
「……言いようがない、言葉にできないみたいな意味だな。いい意味でも使われるし、悪い意味でも使われる」
まさに今の感じ。えも言われぬ空気。
「へえ」
「二人きりになってこれを聞きたかったのかよ」
「あ、いや違うんです。シャルルさんがずいぶん難しい言葉を知ってるなって意味でまず聞きました」
「ああ、そういうことか」
「確か、日本語を勉強して七年でしたっけ?」
隣のソファに座る。
「そうだ。俺と会った後から勉強したらしい」
「いくら何でも日本語の習得早すぎません? だって私の夏休みの課題を手伝ってくれるレベルですからね」
「お前のレベルの低さも気になるが……まあ確かに、ナディアの頃からすごかったな。本や書類の読解力はすごかった。ちょっと古い表現なんかもすぐに覚えていたし」
「王族だからですかね?」
「それを加味しても、だな。かなり優秀な人だったよ」
遠い思い出を頭に思い浮かべかけたが、ひとまず現実に戻る。
「梨花は、普通にシャルルと話せるようになったんだな」
「あ、そうですね」
軽々しく相づちをうつ。
「話していれば、普通にいい人だってわかりますんで。さすがの私でも懐柔されましたよ。こんな戦争のない国に生まれてまで、何を凝り固まった思想を持ってるんだか」
「別に責めなくていい。結果的に気づけたらそれでいいんだ」
「そう、ですかね。この調子でラティオもいけるかな、と思ったんですが、まだ掛かりそうです」
ちょっとうつむいた。
「別に落ち込むことはないさ。シャルルだってナディア時代は、とんでもない偏見を持っていたんだ」
慰めではないが、そんな昔のことを掘り返した。
「へえ。今を見ていると、あんまり想像ができないです」
「やっぱり情報が制限されると、人間誰しもそういう思想を持つのかもな。それこそさっきの誤解、すれ違いみたいにな」
確かに制限はされていた。しかし時を経るごとに、その制限を自分で取っ払ったのだ。自分が属する種族の過ちを知り、それでも彼女は、凜とあろうとした。
先ほど引っ込めた思い出が、またふとした拍子に出てくる。今度は抵抗することなく追憶した。
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