二章 リヴァイツィー二家の嫡男

2-1 変化する日常

 日常とは、毎日繰り返される生活のこと。習慣や出来事、朝食を食べる、などの所作がほぼ変わらないことを指す。

 時折これはつまらないものとして形容される。時計の秒針が進むように、毎日、毎日同じ事の繰り返し、といった感じだ。


 だが動乱の前世を送ってきた俺にとって、何気ない日常は贅沢なものだった。時計の針が一切の障害もなく進むなど、実に幸せなことでしかない。それを壊さないよう、毎朝ダサく決めてみたり、女性社員とは極力話さないようにしたり、帰り道にできるだけ変なところに行かないようにしたりする。ここまでみっちり決まり事をしている人間もそうはいまい。


 しかし悲しいかな、どんなに心がけていても日常は変化する。全く不変のものなどないわけでして。針というのは、容易く狂うものでありまして。


 休日が明けた月曜日。その日はちょっと立て込んだ仕事があり、家路はより黒に染まっていた。自転車を走らせて向かうのはいつものコンビニ。今日もうだる暑さだったため、ビールを買おうと、光る立方体の建物を目指した。

 ようやく着き、駐輪場で自転車を下りる。鍵を掛け、ポケットに入れ、自動ドアに向かって歩く。その途中、あることに気づいた。


 にゃあ、にゃあ。


 猫の鳴き声だ。ずいぶん近くにいる。しかも輪唱のように次々と鳴いている。何事かと思い、音のする方、コンビニの西側を覗いてみた。


「あ」


 小窓から光が漏れる程度の、ダクトや室外機が置かれたスペースには、あのフィリピン人の店員がいた。そして目の前には、猫が数匹。彼の差しのべた手に顔を突っ込んでいる。


「うーん」


 瞬時に状況がわかった。野良猫に餌をやっているのだ。ちょっとためらいながらも、注意するため近づいた。


「ええと……」

「キュウケイ」


 全く求めていない答えに戸惑う。輝かしいほどに無垢な笑顔だが、彼のやってる行為はあまり褒められたものではない……さて、どう注意したらいいものか。


「あ、神代だ」


 ちょっと弱々しい声が後ろから聞こえる。振り返ると、ビニールを持った名波がそこに立っていた。相変わらず猫背の姿勢は変わっていない。そのせいで余計に小さく見える。


「おう、こんなところで会うのは珍しい」

「帰りにたまたま寄っただけだ。で、どうしたんだ?」

「いやちょっと……そうだ。お前フィリピンの言葉話せたよな」

「タガログ語のことか? 大学時代にボランティアで行ったから、ある程度なら」

「そこでお願いがある。彼に野良猫に餌をやらないでくれって伝えてくれるか?」

「野良猫?」


 俺の横を覗き込み、納得したように頷く。


「彼、フィリピン人なの?」

「店長に聞いたから間違いない。二カ月前から働いているそうだから、日本語はまだまだ通じないぞ」

「英語も通じるだろうから、なんとかなるだろうが」


 ちょっと困ったような顔をして、彼の元へと進んでいく。膝に手を置いて話す名波に対し、店員さんは純粋な目を向けている。

 彼の感覚ではわからない条例かもしれないが、野良猫には餌をやってはいけないという決まりがある。ここにいれば餌がもらえると勘違いして住み着き、辺りに糞害などが起きるからだ。

 町内会には所属しているため、こういった行為を見逃すわけにはいかない。しかし自国の領地を治めていた王が、よもや野良猫のテリトリーを気にするようになるとは思わなかった。


 たどたどしい異国語が展開されているが、思った以上に拙く、解決まで長くなりそう。だが自分が頼んだのだ。勝手に帰ることなどできない。だから、ただずっと見守ることしかできない。そうして説き伏せるのに十分以上は掛かった。

 その日、シャルルと一緒に見ようとしていたドラマを見る約束は、ついに叶わなかった。


     ◆


 日常とは想像以上に脆いものらしい。翌日のこと、また針が狂った。いや、今度は歯車がいかれたくらい衝撃的な出来事が起きた。

 自転車で帰っていると、今度は人気のない路地裏の方から声が聞こえてきた。猫の鳴き声なんてかわいいものではない。


「おらあ! お前らが財布を盗んだのはわかってんじゃ!」


 明らかに脅しの声である。自転車を停めて影から覗いてみると、一人の不良が会社員二人を睨めつけている。不良はもう見た目からしてヤバいやつ。今時いるのかっていう金髪のモヒカンだ。


 厄介な場面に出くわした、と言うのが最初に出た感想である。しかし次の、ただ通報してトンズラすればいいやと言う思いを、すぐに吹き飛ばした出来事があった。


「し、知らないです。俺たちは何もやっていないです!」


 ん? この声に聞き覚えがある。さらに顔を出す。

 あれは、同じ会社の社員じゃないか。しかもよくよく見てみれば、普通に接する機会が多い人たちじゃないか。一人の男と一人の女性。二人で仲良く帰る道中で、トラブルに巻き込まれた感じか。


 ……さすがに仲間となれば見過ごせない。別にヒロイズムに駆られたわけではないが、自分でなんとかしてみようと思い立った。


 自転車を下り、引きながら一歩二歩下がる。そうして必殺の一声を、声高に叫んだ。


「おまわりさん! こっちです!」


 すぐに慌てるような声。次いで走り去る足音が聞こえた。しんと静まりかえり、いつもの閑静な通りが戻ってきた。


 お、これは行けたかな。ビビって不良が逃げたに違いない。

 今度は近づいてくる足音が聞こえてきた。あまり自分が助けたなんて言い振らされたくはないが、状況が状況だ。財布を盗んだ云々の事実も確かめたい。そう思い、自転車を停めて路地裏から顔を出そうとした。

 その瞬間、突如太い腕が出て襟をつかまれた。


「よう」


 そしてぬっと、にたにたと笑う男の顔が出てきた。

 今目の前には、遠巻きに見ていた不良がいる。自分と全く同じ目線ながら、体躯は全くの別物だ。目は血走り、笑顔でこちらを睨む様は圧倒的な威圧感だった。


 いきなり出てきたのはびっくりしたが、落ち着いて対処する。


「お前か? 今警察が来るって嘘を吐いたのは」

「なんの事やら」


 襟をつかむ手にぎゅっと力が入り、引き寄せられる。


「とぼけんじゃねえよ! 俺はその手の嘘が大っ嫌いなんだ。前にやられて大恥を掻いたから、もう騙されねえぞこの野郎」

「騙してないんだよなあ」

「大げさな演技ばった声、一切足音が聞こえない。以上の事を踏まえて嘘だと確信した。前に経験しているからな」


 なんだよこの無駄な推理。

 しかしなんという悪手だ。まさか不良がこの手の失敗を経験済みだとは。自分の浅はかさを後悔していた。


「しかし何だよお前よ。俺が怖くねえのかよ。襟つかまれても涼しい顔しやがって」

「あんたより怖い人種なんていくらでもいるし」

「どんな修羅場くぐってんだよ」

「いや、いいから。手を放してくれ」

「嫌だね。せっかく気持ちよく金が巻き上げられる所だったが、胸くそ悪いやつが急に現れたから見逃しちゃったよ。どうしてくれる」


 理不尽にも程がある。しかし……。

 今の話を聞くに、あの二人はやっぱり冤罪だったか。それにもう逃げているはずだ。正体もばれない。


 よし。


「お?」


 襟元を握っていた拳を、ちょっと力が緩んだ隙を見計らって叩(はた)いた。


「なんだあ?」


 襟を直し、首を鳴らして言った。


「いい加減にするんだな。さっきからぶつぶつと」


 自転車を背にし、仁王立ちする。


「今逃げるなら、見逃してやる」

「そうかい。なら」


 そう言って拳を握り、ファイティングポーズ。


「一発殴ってから逃げるわ」


 ……やれやれ。舐められたもんだ。

 こちとら元燎王だぞ。戦線を駆ける機敏さ、そして体術には特に自信がある。それに高校時代はサッカーをやっており、体力には自信がある。


 こちらも身構える。


 刹那の沈黙の後、拳が繰り出される。人通りのない場所で、まさに火蓋が切られた瞬間だった。


 相手のこぶしが、気づいたら目の前にあった。それを認識すると同時に、意識が途絶えた。眼前には夜空が、そして街灯が、最後には地面のアスファルトを頬に感じ星が瞬いた。


 不良の一発KOである。


     ◆


「ダメでした」

「なんで敬語なの?」


 一発だけで済んだものの、右頬がじんじんと痛むくらいの強さで殴られた。どうやら切れているらしく、たった今シャルルが絆創膏を貼ってくれた。


「いてて……二十七の体がここまで持たないとは思わなかった」

「あのねえ、無茶はしないでくれる。現世のあなたはただの一般人なのよ」


 殴られた箇所に手を当てると、ちょっと熱を持っているのがわかる。鈍い痛みがあるが、骨に異常はなさそうだ。


「それにしても、自分から同属の人を助けに行くなんて、さすがはジアルード様」


 ティーカップを置いて梨花は言った。


「その名前はもう呼ばんでいい。ていうか、いつまでお前はいるつもりだ」

「そうですね。あと一週間くらいですかね」


 玄関に置いていたあのキャリーバッグは、やはり泊まる用の物だったようだ。そこからジャージや夏休みの課題まで出てきたのは驚いた。しかし、衣類などはやたらと少なかった。てっきり一日二日程度だと思っていたが、まさか一週間も泊まるとは。


 それを指摘したら、高校生は制服とジャージで着る物が済むから楽なんですよ、なんて言っていた。そんなだらしないやつだったなあ、前世でも。親への言い訳もそうだ。


(親には友達の親戚の家に遊びに行くって言ってるんで)


 ずいぶんと大胆な嘘である。やはりそういった事はズボラだ。諜報活動は水も漏らさずって感じで完璧だったのに。


「ともかく、もうこういう無茶はやめてね」

「へい」

「よろしい」

「しかし燎王様を倒すなんて、その不良どんだけ強いんだ」

「俺が弱いだけだよ。けんかなんて子供時代にしたくらいだからな。今の俺は単なる一般人だ」

「ショックというか、何というか」


 ちょっとダボついたジャージの裾を直す。


「そういえば、この休みにどこかに行ってきたか?」

「米沢方面に行きましたよ。ラーメンがおいしかったです」


 お、地元か。こちらの身の上話はさんざんしたから行ってみたのだろう。


「あとは駅前とかですかね。んまあ……東北らしく慎ましかったです」


 街並みを褒める際に絶対に使わない言葉が出てきた。いや、意味がわかるが。


「今度は自然豊かなところに行きましょうかね。それじゃあ梨花ちゃん。そろそろお風呂を」

「あ、はい。いただきますシャルルさん」


 シャルルとは、こういうスタンスで付き合うことに決めたようだ。初めはぎこちなかったが、徐々に慣れていく様は微笑ましかった。


 そして次の日。


「骨の心配がなくても病院に行け。知り合いにいたんだよ。ほったらかしにして大事になったやつ」


 と、電話の向こうで本間が深刻そうに言った。いつもの軽みが全くない。


「ひとまず今日は休め」

「いいのか。大した怪我でもないのに」

「たまにはいいだろ。普段の勤務態度からしても、病院に行く程度なら許してくれるって」

「悪いな」

「いいよ。しかしまあ……どうして無茶をしたんだか。普通に警察を呼べばいいのに」

「それについては返す言葉がない」


 浅はかすぎた。警察を呼んでいれば済む話じゃないか。今電話越しに話している本間のように。


 一発ぶん殴られた後、すぐに大声で「何やってんだ!」と叫んでくれた人物がいた。それがまさしく本間だった。さすがの不良も、元ラグビー部の男が走ってくるのを見てビビったらしく、すぐに尻尾を巻いて逃げたのだ。


「聞き慣れた声が聞こえたと思ったらお前だったからな」

「ほんとに助かった。これだけじゃ済まなかったかもしれない」


 その後警察に事情を聞かれ、帰りはかなり遅くなった。録画していたドラマをシャルルと一緒に見るという約束は、ついに叶わなかった。


「じゃあ俺は行くぞ。お大事に」

「あ、ちょっと待って」

「ん?」

「できるなら、昨日の暴行事件は黙ってくれ」

「なんで?」

「いや、社員二人を助けたとなると目立ってしまうから」

「別にいいと思うけどな」

「頼む」

「相変わらず目立ちたくないんだな。もう病気だろそれ」


 束の間の後、呆れたみたいな溜め息。


「……わかったよ。名波とかには、怪我して病院に行くって曖昧に言っておくから」


 そこで電話が切れる。もうちょっとお礼を言いたかったが、それはまた次の出勤日にしておこう。


 今現在は八時前。休むという連絡はとうに済ませているため、気兼ねなく三人で朝食を食べる。その後に病院に行ってみた。今回はさすがに車で行った。結果は骨にも異常がなく、ただ腫れているだけだということ。塗り薬と湿布をもらい帰宅。


「どうだった?」


 靴を脱いでいると、シャルルが心配そうな顔で尋ねてくる。


「なんともなかった」

「そう。よかった」


 部屋着に着替え、いざ休日の午前。とは言っても、休みが突然舞い降りてきても何もすることがない。

 録画していたドラマを一本見る。これはシャルルが気に入っているドラマだ。不動産屋の営業の話という未知の世界だからか、梨花の方はちょっと退屈そうにあくびをしていた。


「じゃあ、買い物に行ってくるから」

「私も手伝います」


 テレビを見終わった十時頃に、二人して外に出ていった。怪我人のため、俺は居残った。


 日差しの暑い午前。クーラーの音だけが響くリビングで、一人ぽつんと座っている。暇ではあるが、ゲームをするのはさすがに忍びない。テレビも面白いものは何もやっていない。動画配信サービスも見る気にはならない。

 だから所在なく、ソファの上に寝転んだ。気が緩んでいるせいか、家具にうるさい母が選んでくれたソファが心地良いせいか、ちょっと眠気が襲ってきた。だんだんと微睡んでいき、言いようのない不定形な思考に身を委ねていた。


 何かがおかしい。


 ここ最近変なことが起こりすぎてないか? 梨花ことカーリンが尋ねてきて、休みを挟んで猫の注意、そして昨日は不良に絡まれた。

 人生長く生きていればいろんな事がある。ちょっとしたイベント事が重なることも多いだろう。しかしこの連続する非日常は、どうも嫌な予感がする。

 一つ一つ見れば小さな事だ。たかが三日程度続いただけだ。だが、変に行動を起こしたばかりに、心配事からくる想像がちょっと誇張されてしまう。


 生まれ変わりを探すと決め、国旗を模したパッチワークをSNSに公開した。このおかげで、久しぶりにカーリンと出会えた。それは本当に感謝している。ただ……一方でこんな気持ちもあった。


 こっちの世界まで来て、前世の関係を続ける必要があるのか?


 シャルルは約束があったから例外として、カーリンなんて楽しそうに女子高生ライフを送っているみたいじゃないか。存在を知ったら会いたいに決まっているだろうが、もし何も情報がなければ、彼女は第二の人生を普通に生きられたはずだ。今さらなのは重々承知しているが、そんな事を考えてみる。


 彼女の前世での不幸な生い立ちは知っている。拷問が苦にならなかったというのは、裏を返して言えばそういうことである。だからこそ、前世の記憶に縛られることなく、新たな道を歩んで欲しかった。


 ……わざわざ仲間を探す必要があるのか? 前世の苦しさを思い出させる意味があるのか?


 しかし俺の考えとは裏腹に、シャルルに加え、梨花も仲間を探す考えに賛成した。だから何も言えずにいる。俺が間違っているのだろうか。杞憂なのだろうか……。


 ブッブッ。


 突然の音に現実に引き戻される。スマホが二回、存在を知らしめるように振動した。今のは、SNSに返信が来た時の音だ。すぐにスマホをつかみ、画面を見る。


 ……ラティオさんから返信がありました?


 ラティオ、と英語表記で書かれている。アメリカの人だろうか。タップし、返信の全文を見てみる。


 しかしそこには英単語が一つだけ、


(paruminado)


 パルミナードのローマ字表記が書かれていた。

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