檸檬色のあかり

まゆし

檸檬色のあかり

 国語全般が苦手な俺は、授業中いつも寝ていた。


 でもある時、現国の授業が楽しくなって、真面目に受けるようになった。古典は相変わらず眠くなってしまっていたが……さらに付け加えるなら、どの教科も眠い。唯一、現国だけが楽しかった。それなのに、現国の授業がつまらなくなくなったのは、何時からだろう。


 現国の先生は、明るい笑顔が眩しくて。だから現国の授業は楽しい。うつらうつらと寝始めると、怒り半分、笑い半分で「あたしの授業がつまらないっていうワケ?」と、すぐ見つかって起こされる。授業を進める先生は、楽しそうで生徒を退屈させない。いつも華やかな笑顔で教壇に立つ。


「先生!あの無冠の文豪って呼ばれてる咲良岬って、この高校の卒業生だったって知ってました?」と、進路指導室から女子生徒のカン高い声が聞こえた。


 へぇ、咲良岬ってここの卒業生なんだ。俺は手に持っていた本をポンッと宙に放り投げて、トンッとキャッチした。まさに、これが咲良岬の本だ。

 実を言うと、俺もこの人の作品は好きだ。今日はバイトがないから、これから海の見える岬でこの本を読もうと帰るところだった。バイトの無い日は必ずといって良いほど岬で本を読む。人が少ないから、ベンチを誰かに取られていることも殆どないし。ベンチじゃなくても、大きな桜の木は葉桜でも今の時期は虫もいないから大丈夫だろう。制服なんて、自分で洗えばいいんだから。


 進路相談の盗み聞きまがいなことはしたくないので、そのまま岬を目指すこととする。階段をトントンとテンポ良く登る。

 今日も海は誰かを待つように、広く広く両手を伸ばしている。誰かを抱き締めてあげたいと思いながら遠くまで懸命に手を伸ばすように。


 咲良岬か……俺は、何となく持っている本の作者を呟いてみた。しばらく前に、暴力事件か何かを起こしていたんじゃなかったかな。作家って仕事は大変なんだな。世の中に楽な仕事なんか無いんだろうけど。


 でも、もうすぐ、俺も決めなければ。


 父親はいない。母と俺と弟の三人暮らしで経済的余裕は無い。寝てばかりいて授業もろくに聞きやしない俺と違って二歳違いの弟は優秀だ。あいつには進学してほしい。きっと本人もそれを望んでいるだろう。

 だから、俺は高校卒業したら就職しようと決めていた。この時代に、俺の学力で、俺の素行で、就職先なんか見つかるのか。この本は、俺にとって咲良岬の本は御守りのようなものなんだ。

 何冊も何度も読んだ。その中でも結末が曖昧な作品は、いくつもの道筋があることを感じさせる。俺の道はひとつではないことを忘れるなと話し掛けてくれる、大事な本だ。

 そして、その本を手に取るきっかけはあの先生の存在だった。先生がよく本屋に通うことを知っていたから、本屋でバイトをすることにした。先生はいつも咲良岬のコーナーを見ていた。


 いつからか、先生の顔色が悪くなり笑顔はやっとの思いで作っていたように見えた。他の奴らは色々と先生の事をしきりに鬱だとか自殺未遂をしただとかの噂をしていた。先生はとうとう学校に来なくなった。現国の授業は元通りにつまらなくなった。


 先生……俺はもう一度、先生の笑顔が見たいよ。またあの笑顔で俺を起こしてくれよ……頼むよ。


 ひとりじゃ何も決められないんだ。他の先生は信用ならない。綺麗事ばっか言って、俺の家庭事情も気持ちも汲んでくれようともしない。そんな大人に流されようとなっている俺は、どうしたらいいんだ。


 俺が小学生になった矢先の事だった。父親が死んだのは。まだ幼稚園児だった弟には、良くわからなかったようで、しきりに「おとうさん?おとうさん?」と、冷たく仰向けに横たわり微動だにしない父親に対して懸命に話し掛けていた。俺は呆然と見ていただけだった。母親は父親にすがって泣き、泣いて泣いて……

 それから、俺たちの方を向いて「幸せになろうね!」と涙声で言いながら抱き締めた。


「幸せになろうね!」という大雑把な夢を握り締めたまま、俺は上手く息ができずに途方にくれて動けない。


 再婚だってしたければしたらいいと、中学生になってからは思った。母親は、よく見聞きする自堕落な生活は一切しなかった。昼夜を惜しまず働いて家事もこなす。疲れていないはずがないのに、家では明るく振る舞い、口癖のように「幸せになろうね!」と言う。


「幸せになりたい」と誰かに願うこともなく。


 子供の俺たちに出来ることは少なすぎた。どんなに助けてあげたくても、まだ成長しきれていない、こんな手じゃ何も出来ない。


 将来の事を母親に相談すれば、将来を考える時間を与えようと進学させる為に母親はもっと無茶をして働いて体を壊してしまう。

 俺は「部活には興味がない」と言って、バイトをして生活費の足しにしてもらってる。だけど、母親がそれを貯金していることを知っている。知っているから、使うなら弟に使ってやって欲しい。弟は俺と違って頭が良いから、夢を見て夢を叶えて欲しい。


 地元の高校に入ったものの、勉強は苦手で赤点まみれ。でも、就職先はできるだけ高卒なりに全うな職に就きたい。初任給が安かろうが、少しでも昇給の可能性が多い会社に。いや、そんな条件のある会社はあるだろうか、他の就職希望の奴らに内定を取られてしまうんじゃないか。秋にはもう求人票が貼られてしまうのに。どうしたらいいかわからない。


 ──今、俺は何をしたらいいんだ……


 そんな迷いを忘れてしまおうと今日も本を開く。


 日が暮れて家に帰ると、弟が食事の準備をしていた。

「お前、何やってんだよ」

「何って、夕飯作ってるんだけど?」

「そうじゃなくて!勉強しろよ!」


 大喧嘩になった。兄弟喧嘩らしい喧嘩もろくにしてこなかった俺たち。子供ながらに母親を困らせたくなかった。

 反抗期ですらも、反抗心は別の方向に動いた。「俺の服は自分で洗うから、触んなよ!」「俺の部屋に入るな!掃除とか自分でやるから絶対に入るな!」と。母親に対する反抗心は、『自分のことは自分でやるから放っておいてくれ』という母親の負担を少しでも減らそうとする方向に。

 大喧嘩は止まらない。今まで抑えていたことを全部ぶちまけるように、取っ組み合いになる。


「お前は、頭良いんだから勉強して進学しろよ!」

「勝手に決めんなよ!俺のことだろ!」

「あぁ!お前の事だな!でも……」


 ……でも、何だ。こんな俺に、ちょっとばかり先に生まれた俺に、何が言える?何も言えなくなった俺は、弟に背を向けて「チッ!」と舌打ちして壁に拳を叩き付けた。


「兄さんさ。高校出たら就職するつもりなんだろ」

 弟が冷静に話し掛けてきた。


「そうだけど、何か文句あんのかよ」

「ないよ。でもさ……」


 急に弟が口ごもる。背を向けたまま返事したが、弟が中々口を開かないので振り返る。

「でもさ……」

 弟は今にも泣きそうだ。


「俺たち三人で、幸せになろうよ」


 目頭が熱い。


 言わんとしている事は、理解できた。母親も俺も、三人の為に、弟の為に尽くそうとしている。弟は、置いていかれた気持ちになっているんだ。母親と俺が稼ぎ、学費や生活費に困らないように気を遣う一方で、自分だけがそれに甘えて大学に行く。奨学金で大学に行かせる、なんてことも考えなかった。いつも「欲しいもんはねぇから、生活費の足しにしてくれよ」と母親にバイト代を渡していた。それが、母親の為に弟の為になると信じた。


「悪い……」


 俺は素直に口にした。


「でも、俺はお前と違って勉強はできねぇからさ。だから、お前は大学に行ってくれよ。そんで、良いところに就職してくれ」


 弟はそれでも迷っていたようだが、進路を決めるのにはまだ時間がある。それを見越してか「勉強だけは、兄さんの代わりに、ちゃんとやっておくよ」と言った。


「一言多いんだよ!」と、取っ組み合いの兄弟喧嘩はすぐに終わった。


 翌日。かったるい高校の授業を済ませて、バイト先の本屋に向かう。過去と言える程時間は経っていないのに、山積みにされていた咲良岬の作品は棚に乱れることなくひっそりと置かれている。

 その棚の前に、ひとりの女性がいる。先生だ。ゆったりめの服を着ていてもわかる程、体は今にもへし折れそうに痩せている。先生は、虚ろな目で本棚を眺めてゆっくりと出口へ足を運ぶ。


 俺は声を掛ける事すら出来なかった。何て言えばいいかわからなかった。あんな姿の先生に、俺の泣き言のような就職相談はできない。先生に笑顔が戻る時は来るんだろうかと考えていたら、もう閉店時間だった。


「あ、君。高校卒業したら、就職希望なんだって?」


 帰り支度を終えた俺に店長が話し掛けてきた。


「え?そっすね……」


 店長にそんな話は一度もした事がなかったから、歯切れの悪い返事をしてしまった。もしかしたら、バイト仲間から聞いたのかもしれない。


「じゃ、うちに就職しなよ!こっちとしては一から教える手間も省けるし!」

「え?あ……す、少し時間ください」

「うんうん!すぐじゃなくていいからさ!考えといてよ」


 本屋を後にする。思いがけない店長からの言葉に、上手く答えられなかった。


 ──そんな、上手く行くもんなのか?


 外はすっかり暗くなっていて、いつもならそのまま帰宅するはずなのに自然と一本桜のある岬へ行った。


 一本桜を照らす月は少しだけ膨らんだ中途半端なカタチに黄色。


 満月でも新月でも三日月でもない、だから俺にはあの月の呼び方がわからない。


 ──檸檬みたいだな。


 いつも鞄に入っている咲良岬の本を掴んだ。


 咲良岬は、暴力事件を起こした。

 先生は、精神障害を患った。


 俺は、仕事をした事がないから、そこに至った『何か』を知らない。だったら『何か』を知る為に、目の前のチャンスを手にするだけだ。


 本を手に持ち、涼しい風に吹かれて家に帰る。


「幸せになろうね!」


 あの一言の為にも。

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檸檬色のあかり まゆし @mayu75

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