ローズ

 いつだっただろうか?

 自分が捨てられたと自覚したのは。


 自分を産んだ親の顔も知らず、何故か今生きている事に疑問を覚えながらも、生への執着を捨てられない。


 生ゴミであれ、雑草であれ貴重な食料だ。

 飢餓を訴える腹の音を収めるため、構わず口に詰め込んだ。


 雨が好きだった。

 上を向いて口を開けていれば勝手に渇いた喉が潤う。

 井戸に近づけば病気の源だと蹴られ、遠ざけられる自分を、雨だけは平等に潤してくれる。


 雨が上がればまだ乾ききっていない水溜まりを探して徘徊する。

 泥臭い水溜まりの水を啜りながら、何度この世界を呪っただろうか。


 水溜まりに映る月明かりが嫌いだった。

 雲一つない夜空に煌々と輝く美しきそれは、ローズにとって乾きの象徴だったから。

 太陽のように身体を温めてくれるわけでもなく、ただ夜空に輝く月。 


 いつしかローズは下をむいて歩くようになった。


 空なんて見たくない。

 それでもそれは目に映る。

 泥水をすするとき、その水面に映り、ローズの視界を汚すのだ。




 

◇◆◇◆◇


 執着だけでは生きてはいけない。

 幸いだったのかローズは死ぬ前にイーストウィンドの男の目に留まり、拾われた。


 イーストウィンドに住むその男は、安く女を飼う為に訪れた周辺集落の隅で膝を抱えるローズを見つけたのだ。


 男がローズを拾った理由は下卑たものだったが、このままでは生きていけないことは事実だ。

 ローズはおとなしく男に付いていった。

 

 男は商人を営んでいた。

 たくさんの部下がいて、いつも偉そうにふんぞり返っていた。


 男は部下達にローズを自分の隠し子だと伝えた。周辺集落で買った女との間にできた娘だと。


 まだ世間的には子供と呼ばれる歳であろうローズを、その様な目的で拾ったとは男も言い難かったに違いない。

 おそらくローズとの本来の関係を部下達に知られぬ為についた、とっさの嘘だったのだろう。




◇◆◇◆◇


 歳を重ねればローズも世間のことが解ってくる。

 父を名乗る男がどうやら商売の裏で、決して胸張れぬ事業に手を染めていることは周りの声や挙動で気がついた。


 だがローズにとって男は生きる糧だ。

 情などないがいなくなられては困る。


 何をやっているのかは知らないが、ローズは男がしくじって捕まるようなことがないようにと心の中で願っていた。

 もしそうなったときに備え、出来る範囲で逃げ出す準備を進めながら。


 ローズの願いは届かなかった。

 結局男の営む商館は騎士達に踏み込まれ、男は捕まった。

 

 準備のおかげで何人かの男の部下と共に逃げ出しすことは出来たが、行き先に当てがあるわけではなかった。

 このままでは、またあの生活に戻ることになる。

 それだけは嫌だった。


 気がつけば皆がローズを見ていた。

 あの男の娘という肩書きが、こんな形で効果を発するとは。

 だが、これはチャンスでもあった。


 地べたを這いつくばっていたあの頃、子供故、非力故に出来なかったことが今なら出来る。

 ここには自分の言うことを聞く、無力ならざる者達がいるのだから。


 今ある物は何もない。出来ることはただ一つ。


「皆、悪事に手を染めることには慣れているだろう?」


 奪う。ただそれのみ。

 これから自分は人の道を外れて生きていく。


「これより私達は“月映ゆる水面”と名乗る」


 ローズが一番嫌いな物を名乗ったのは、自身を貶めることで少しでも罪悪感から逃れようとしたからかもしれない。




◇◆◇◆◇


 おそらくローズは、騎士というものをどこか見下していたのかもしれない。


 周辺集落にも騎士達は度々現われ、下劣な表情を浮かべながら女を買った。

 男の裏の商売にも気付くまでに随分時間がかかった。


 騎士など大した事はない。いつしかそんな風に考えていた。


 甘かった。


 ただの市民が勝てるような者達ではなかった。


 最初は上手くいった。金のありそうな商会を人目のないときに襲い、金と食料を奪った。

 騎士達の目を眩ませるため3ヶ所の同時襲撃。

 そして騎士達が来る前に逃走に成功した。


 高をくくった。次も大丈夫だと。

 そう思ってしまった。


 一度やれば警戒される。

 騎士達の警備はより厳重になる。


 2度目の襲撃は失敗だった。

 騎士達が来るのが前回と比べ余りにも早かった。


 取るものも取りあえず、ローズ達は逃走に成功したが、他の者達は捕まったようだ。


 部下の数は一気に減り、騎士達の包囲網は狭まっている。 

 

「ここから出よう。このままでは捕まる」


 幸いにもイーストウィンドの東に向った先にあるのは別の国だ。

 ローズ達のことも知られてはいまい。




◇◆◇◆◇


 商人を襲った際に手に入れた物資で武装を固め、商人を装った。

 部下達の不満を身体を使って晴らしながら、夜間の見張りをさせつつ進み、多少の犠牲を出しつつもなんとかウェストサイズに辿り着いた。 


「野獣の襲撃で護衛達が……彼等の武器を拾ってなんとかここまで辿り着きましたが……。どうかお願いです。住まわせろとは言いません。ここで商売をさせて下さい。護衛を雇えるまで稼げれば街を出て行きますから……」


 服を汚し、破き、情に訴えウェストサイズに潜り込んだ。

 とはいえ、商売などやったことはないし、売れるものもそこまでない。そもそも商売をする気もない。


 前回は2回目で捕まった。だからたった一度きり。一度きりで稼ぎきる。

 その目は毎日、行列が出来てはすぐに完売する店に向けられた。




◇◆◇◆◇


 悪夢だったとしか思えない。

 襲った店、確か“食道楽”といったか。あそこの店員はいったい何者だったのか?


 武装で固めたローズも部下も、無手の店員にあっさりとあっけなく取り押さえられた。

 何故騎士でもない彼等がこんなにも強いのか?


 腕を縛られ牢屋に入れられる。

 後は裁きを待つだけだ。


 牢屋で数日ローズが待っていると、随分質の良い服を着た男が現われた。


「この者がイーストウィンドが引き渡しを求めている女か。まったく……漸く黒騎士達の子を……」


 男は急に顔を赤らめその場を去って行った。




◇◆◇◆◇


(何がどうなってこうなった?)


 ローズはイーストウィンドに運ばれたかと思いきや、すぐサウスウィンドに運ばれた。


 ローズを連行する者達の話を聞くに、新しく建造した船でジャックと言う名の騎士隊長が不満をこぼしているらしく、それを抑える為にあてがわれるようだ。


 まだまだ聖教国の船の建造技術は未熟だ。

 危険な仕事に就いたジャックはそれ相応の優遇手当を求めたわけだが、ローズの知るところではなかった。


 ローズにとって重要なのは自分がどう扱われるか、ただそれだけ。

 その意味で最悪だったと言わざるを得ないだろう。


 ジャックは加虐性欲者だった。

 訳もわからず毎日嬲られ、逆らえば更なる暴力が待っている。


 食料もろくに与えられず、飢えて弱っていく様すら楽しんで見ていた。


 ローズは身を守る為に従順を装いつつ、いつかジャックを殺してここを出ると決意した。




◇◆◇◆◇


 ジャックは船の中にもローズを連れて行った。

 敵船をサウスウィンドの海から追い出す為らしい。

 

「隊長、敵船に接近しました」


 従順に装っていたのが効いたのか、女一人と侮ったのか。


 ジャックはローズの服を剥き、縛りもせず、跪かせ直前まで事に及んでいた。

 海に出る恐怖をローズで解消しようとしていたのかもしれない。


 余程の敵なのか、呼ばれたジャックは勿論、騎士達はみな甲板へと出て行った。

 一応は軍船だ。恐怖からか運良くも鍵をかけ忘れられた扉を開け、閉じ込められた船室を出れば、予備の短剣はすぐに見つかった。 


 突如轟音と共に船が揺れた。


 周囲を取り囲む船と戦いを始めたらしい。

 敵船の船の力は圧倒的だ。


 ローズの船は四方八方で船を象る木材が、破砕される音と共に木片へと変わって行く。

 このままではローズの命も危ない。


 ならば。いや、今こそ。


 ローズはジャックを短剣で突き刺し、敵船の方へ身を投げた。




◇◆◇◆◇


 結局ローズは盗賊団の一味とすぐに気付かれ、そのままウェストサイズに連行された。

 またイーストウィンドに引き渡されるのかと思ったが、そのまま小綺麗な部屋に通された。


 ウェストサイズの生活は悪くない。


 毎日黒い鎧を着た男達が訪れては、自身の穴という穴に侵入し、うめき声しか挙げられない時間があるが、柔らかい寝床も美味い飯も与えられる。

 毎日身体を綺麗に洗い、良い服を身に着けられる。


 子を孕めば、その子は大切に育ててくれるという。


 勿論良いことばかりではない。


 服も部屋も食事も全てローズに選択権はない。他人の選んだ場所で他人が選んだ服を着て、指定された時間に身体を洗い、食事を取る。

 自由なき束縛の日々。


 だがそれを悪いとは思えなかった。


 ローズは昔の自分を振り返った。


 月夜を憎んだあの日々は、地獄だった。

 誰も守ってくれず、明日をも知れぬ日々。

 だれもローズに構うこともない。


(あれを人は自由と呼ぶのだろうか?)


 応える者は誰もいない。 

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