一章 図書委員は地下へと潜る 2


   ◇


(あの女子、どこ行った……って!)


 そして、場所は戻って地下書庫だ。


「くそっ、見つかった!」


 聞こえる爪音が加速し、振り向くたけるの視界に通路の角を曲がり来る巨犬の姿が映る。その体高は一m半を越え、最早猛獣というサイズにも収まらない。虎とてもう少し大人しいサイズだ。


「なんで図書館にこんなもんがいるんだ!」


 たけるは全速力で通路を走り抜ける。それ自体に驚きを得ながら。


(全力で走るなんて、いつ以来だ……しかも前より速い?)


 それは、彼には失われたはずのものだった。命の危険を感じているような状況で無ければ、跳び上がって喜んでいたところだろう。


「そんな場合じゃねえけどー!」


 巨犬ほどではないが、通路や書架の端々に、妙な生き物も時折眼に入る。だが今はそれどころではない。如何に常より早いとは言え、高校生男子と巨犬。双方の運動能力を考えれば、遠からず追い付かれる。


(い・よ・い・よ・ダメかー!?)


「こっち!」


 絶望がたけるの心を染めかけた瞬間に、横から声が掛けられた。


「っ!」嫌も応もない。このままでは犬の夕食だ。たけるは横に開いた通路へと横っ飛びする。


 壁に肩をぶつけながらもたけるが入り込むと、


「閉めて! すぐ!」


 声に従い、たけるは慌てて入ってきた扉を閉めた。直後、通路を駆ける獣の足音。


「ぜえ、ひい……助かった……?」


 入った先はまた通路だ。荒い息を吐いたたけるの視界にまず入ったものは、


「!?」


 横たわる少年の姿だ。赤毛の、少し不良っぽい印象である。襟の徽章からすれば、一年生。しかし何よりも目を引くのは、髪の赤では無い。胸に広がる朱だ。反射的に脈を取るが、


「死んでる……!?」


「死んでますね。いやあ、助けに来たんですけど間に合いませんでした」


 あっけらかんと死を語る声。横からのそれにたけるは振り向く。


 空色の髪。シャープに整って、目鼻立ちのくっきりした容姿は西洋人のそれだ。よく見れば、その顔は図書委員会で幾度か見たことがあるものだった。会話したことは無いが、英国の留学生と言う希少な立場から、名前はたけるの頭に入っていた。


「一年のエスキュナ・コーナー……だっけ」


「イェス。確か図書委員のせんぱいでしたよね。お名前はごめんなさい、覚えてないです」


 たけるは無言で名札を示す。


守砂すさせんぱいですね! たけるせんぱいの方がいいです?」


「どっちだっていいけど、君、これ」


 たけるは床の死体を示す。彼には慣れがあるが、エスキュナの態度はあまりに泰然としていた。


「ああはい、とりあえず連れて帰らなきゃいけないんですけど、流石に担いでアレから逃げるのは無理だったんで、困ってたんです!」


 何がなんだかという有様であるが、とりあえず本の返却がどうとかいう場合では、もはやないということは明らかだった。


「ちなみに、帰り道とかは」たけるは逃げるのに精一杯だった。来た道は微妙な所だ。


「うろ覚えです! ふふふ、せんぱいったらわたし一年ですよ?」


 自慢げに、誇らしげに言われた。


「帰りのルート失うとか、遭難じゃねえかよ……」


 遭難。目の前の死体。自分と共にいた人の。体温が数度ほども下がる錯覚。


(――――っ。落ち着け……ここは違う。あの場所じゃない……)


 と、たけるがそこで脳裏に浮かぶものを思い出す。地図?


「あった!」小さく叫ぶ。


「わっはぷ!」普通に叫ぶ。


 先ほどの巨犬の他にも生物らしき姿はあった。気付かれれば面倒だ。エスキュナへしーっと注意して、たけるは目を瞑って脳裏の地図を注視する。


 …………見事に、彼が逃げ走ってきたルートが塗り替えられている。


「よーしよしよし……」


 しかも、自分とは違う動くマークがある。先ほどの巨犬だ、と何故かたけるには理解できた。


「行ける行ける行ける……」


「何か怖いこのせんぱい」


 目を閉じて唸るたけるに、エスキュナがやや引いている。


「失礼な。よし、帰り道は任せてくれ」


「ほんとですかっ! せんぱい頼りになるぅ」


「……………………」見事な変わり身だった。


 しかし、今すぐ出てはあの巨犬に鉢合わせする可能性が高い。休憩を続けつつ、たけるは目下の死体を見た。名札には『大国おおぐに八治やち』とある。


「この彼は――いったいなんだってこんなとこに」


「バカヤチは……あ、こいつですこいつ。わたし、こいつが何かここに入ってくのを見て、危ないから助けに来たんですよ。……間に合わなかったけど」


 エスキュナが答える。知り合いだったようだ。


(二重遭難。いや、俺も含めりゃ三重か)


 そういった状況に覚えがあるたけるは沈痛な心持ちになる。


「そいつは……残念だった」


「ま、放置はさすがに可哀想ですしね~」


 淡々と彼女は答える。


「か、軽いな……。しかしなんだって図書館の下にこんなとこがあるんだ」


「え、せんぱい知らないんですか? 地下閉架迷宮書庫」


 常識っぽい返され方をして、たけるは眉をひん曲げる。


「あれあれ? わたし、勘違いしてます? せんぱい、魔書もらいましたよね?」


「ましょ?」


 こくこくとエスキュナは頷いて、


「受付嬢さんに」


 言われて、彼は思い出す。懐の本を取り出した。


「あ、それですそれ」


「コレが? 返却するんじゃないの?」


 素の疑問に、エスキュナは怪訝さを深めた。


「もしかしてですけど、せんぱい、何も知らずに来てます……?」


「こんなとこがあること自体初耳だよ」


 おーぅ、と彼女は天を仰いだ。たけるは考える。現状は帰るのが最優先。


「とりあえず――必要なことだけ聞かせてくれ。この本に何があるの?」


 彼女は頷いた。たけるが持っていた本の表紙を指さす。


「これ――読めます?」


「英語っぽいけど、読めな……ん、ん?」奇妙な感覚が脳髄に走った。字自体は微妙なのだが、「読める……? 『亡失ぼうしつ迷宮めいきゅう』?」


「はい。確かそのはずです。これ、私は今、読めないんです。魔書の貸出者じゃないので」


 なんだそりゃ、とたけるは微妙な顔をするが、エスキュナは割り切ったようだ。


「そういうものだと思って下さい。要は、魔法の本です。だから魔書。そんなのあるわけないとかナシですよ、ここにありますから」


「むう」


 先んじて反論を封じ、ぴこぴこ指を振って彼女は続ける。


「これを地下閉架迷宮書庫――ここです――のエントランスで『受付嬢』さんから借りると、貸出者は……えー……簡単に言うと、強くなります」


「んな」


 アホな、と続けようとして。たけるは自分の足を意識した。約二年半ぶりの、全力疾走。二度と出来ないと思っていたそれ。そして、あとひとつ――


 考え込むたけるを見て、エスキュナは頷いた。


「なので、魔書はこの危険な迷宮書庫を探索するための、装備なんです」


「――それだけじゃないよな? 本の効果」


 不意に投げた疑問。次に意表を突かれるのは彼女の番だった。


「え、もしかしてせんぽい、『記述』使えるんです……?」


「それかどうか知らんけど」


 たけるが脳裏の地図について話すと、エスキュナが目を丸くした。


「すごい……迷宮書庫初めてですよねせんぱい!? それで『記述』使えるなんて。わたしなんてまだパワーアップだけですよ」


 たけるは安堵する。脳裏の地図は本の効果で、彼自身の脳がどうにかなったわけではない。


 疑問はまだあるが、一旦置く。帰還が優先だ。


「整理しよう。つまり今俺達は普段より身体能力が高くて」


たけるせんぱいは自動の地図が使えます。さっき言ってましたけど、帰り道も?」


「分かる」「すてき」


 頷き合う。帰れそう。たける大国おおぐにという少年の死体に触れる。少し、意識して息を吸い、吐いた。乗り越えねばならない。股から手を入れ、肩に担ぐようにする。右手で腿を押さえ、左手を空ける。火災現場などで用いられる、意識のない者を運ぶ方法だ。


「わっすご。持ち上げちゃった。こいつ、お任せしていいんですか?」


「君は一応魔書とやらの経験者なんだろ。そっちが自由な方がいい、と思う」あと、と人差し指を立てる。「仏さんにこいつ、は止めとこう」


 エスキュナが何事か言いかけ、しかし口を閉じた。代わりに「はーい」と返事。

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