第四章 第二節 美女の涙唄
弟の恒星のことでバイト君がわかりやすいヤキモチを見せるので、胸がギュッと締まるような感覚に陥って凄く愛おしく思えた。バイト君が私に向ける感情を改めて自覚する。私は彼の気持ちに気づいている。
そして今日助けられて私は、自分の感情もはっきりと自覚してしまった。
先週、思わぬ形で唯ちゃんと再会し、そこでバイト君と唯ちゃんのツーショットを見た。バイト君の初恋の相手だって知っていたから少しだけ複雑な気持ちは抱いたけど、その時の私は自分の感情を自分で誤魔化せていたのに。
けど今の私は目の前の彼に恋したのだと、はっきり認めてしまっている。
しかしもう私にはない純情な感情。それを持っている野獣のような外見の彼に私は釣り合わない。バイト君の理想とする女性ではないのだと、理解してもらわなくてはならない。もしかすると既に手遅れかもしれないが、後から知るほど彼が傷つくことは目に見えているから。
私が嫌われるのは怖い。それでも私のことをちゃんと話す。
「話戻すね」
「うっす」
バイト君は目を閉じて薄い反応に戻った。私の意地悪な言動に動揺を見せていた時の彼の方が可愛くて良かったけど、そんなテンションで話せる内容ではない。私は膝枕をしながらバイト君のゴツゴツした額を撫でる。
「元カレと別れてから、パパ活でドジを踏んだことが影響して私は男関係が荒れた」
「どういうことっすか?」
「誰とでも寝るようになったの」
「……」
バイト君の眉間に皺が寄った。彼の今の心中は推して知るべしだ。
パトロンから昏睡状態にされたのは本当に私の脇の甘さが招いたことだと思う。昏睡から覚めてもそこが既に密室ならば力では敵わない。
男の人の恵まれた体格は、自分の欲求を満たすよう女を服従させるためにあるのだと思うようになった。それなのにバイト君はそうではないのだとこの日示した。逞しい肉体を晒して私を助けてくれた。思い出すと体中が熱くなる。
「なんで……」
バイト君の声は消え入りそうだった。彼の感情の波を肌で感じるから胸が痛む。
自分が馬鹿正直じゃなければどれだけいいだろう。自分を偽ったままバイト君が私に向ける感情を一心に受けるのに。バイト君の理想の女性像ではないことを隠したまま私はいい思いができるのに。自分のことが本当に不器用だと思う。
「男と寝ることは大したことじゃないんだって思いたかった」
話していると当時の虚しい感情が蘇ってくる。
同窓会で再会した高校の時のクラスメイトは私から誘った。彼は喜んでついてきて、行為が終わってからも満足の言葉を発した。けれどそんな彼が滑稽で、結局その後の連絡を絶った。
大学の飲み会で知り合った他の大学の学生も、相席居酒屋で一緒になった三十代の会社員も、行きつけの美容院の四十代店長も、その全てが一夜限りだった。
「けどそれも3カ月くらいで自分のやってることがバカなことなんだって気づいて、それでやめた」
「そうだったんすか……」
「うん。それからの3カ月は本当に男の人から距離を置いてたし。例えばカナメなんかは今日までバンドの交友関係の域を出ない認識だった。会えば話すし、連絡も取り合うことはできるんだけど、バイト君を紹介するまでお酒の席で一緒になったりとかの付き合いもなかったから」
バイト君の眉間の皺が伸びて、彼は穏やかな表情に戻った。安堵で力が抜けたように見える。やっぱりカナメとの関係も疑って気を揉んでいたのだろう。恒星のことを誤解していると知ってそうではないかと思ったのだ。
どこか強面のはずなのに、絶対私より老けて見えるのに、なぜだか彼が安心の感情を垣間見せると、年相応の少年に見えるから可愛い。本人は自分のコンプレックスで気づいていないかもしれないが、強面なのに色んな表情をするのはギャップがあって魅力だ。
「だから本当はね、先月バイト君が夜遅くに家まで送るって言った時、下心があるんじゃないかって警戒したんだよ?」
「え!」
「送り狼さんになるんじゃないかって」
私は悪戯に笑ってみせる。バイト君は私の膝でずっと目を閉じているが、この時ばかりは目が開くのでないかと思うほど眉が額に寄った。
「それなのに公園で一緒に飲んだりもしましたよね?」
「うん。バイト君が真剣で疑うのも悪いかなって。それでバイト君なら少しだけ信じてみようかなって。だからお酒持って公園に寄り道したりもしてみた」
バイト君のせいにはしないが、バイト君の安心感は私の緊張を解いたと思う。だから今日のオーロラのことは今までのバンド同士の関係もあって、まさか3人で襲ってくるなんて思ってもいなかった。完全に私の油断だ。
「そういうことだったんすね。酔ってたから無邪気になったのかと思いました」
「それもある。私、酔うと陽気になるから」
これには苦笑いしか出てこない。とは言え酒癖が悪いわけではないし、恐らく今までもお酒で人に迷惑をかけたことはないと思う。だから陽気になるのは見逃してほしい。
ただバイト君と公園で飲んだ日の夜遊びは、彼を気に入るきっかけになった。純粋で真摯な彼と夜中の公園で話しているのはとても楽しく、どこかイケナイことをしているようなワクワクした感情で昂った。
そうかと言って私はすぐに彼を男性として好きになったわけではない。その後の交流も含めて少しずつだ。自分の感情を自覚する決め手は今日の晩だった。
バイト君は呆れたような声を出した。
「それであんな風に俺を揶揄ったんすね」
「ふっ」
私は彼がなんのことを言っているのか思い出して噴出した。やっぱり聞こえてたんだ。彼のスクーターに乗せてもらっている時、うなじに感じた彼の男の部分はとても立派だった。実は今ではその興味が捨てきれないのも事実だ。
「バイト君がどこまで信用できる人なのかなって、私不器用だから露骨な言い方で確かめた」
「ったく。もしそれで俺が態度を豹変させてたらどうするんすか?」
「常連客を相手にそれは杏里さんに顔向けできないから、ないって確信してた」
バイト君は梅干を食べた時のよう表情になって口を噤んだ。やっぱり可愛い。
けれど今私が言った根拠は嘘だ。そう思うなら送ると言った時からわかっていることなので疑う必要はない。自分の立場を顧みず、態度を豹変させるオスは間違いなくいる。
ただあの晩、バイト君を試したのも事実だ。もしそれでバイト君が態度を豹変させたなら、心を3カ月前の自分に戻してやり過ごそうと思っていた。我慢すれば、時間が過ぎれば、そうすれば日常に戻れると思っていたから。
けど今ではバイト君に対する自分の感情に自覚がある。だから今もしここでバイト君に求められたら私は喜んでしまうだろう。さっきまでカナメの家で怯えて本気で泣いていたのに、ほとほと自分が滑稽で現金で救いようがないポンコツだと思う。それでもこれが私の女の部分だ。
「とにかくエカさんのこと、わかりました」
すると穏やかな表情に戻ったバイト君は言った。どこかスッキリしたという感情も垣間見せる。それがとてつもなく寂しく思えたので、私は少し投げやりに言った。
「こんな女です」
「俺はガキんちょなんで偉そうなことを言えた立場ではないっすけど、それがエカさんの弱かった部分なんすよね」
「そうだね」
「俺にもたくさん弱い部分はあるから」
「そっか、そっか」
「エカさんは今までたくさん傷ついてきたんすね」
「え?」
「それで今のエカさんがあるんすね」
何を言っているのだろう、この子は。一気に胸が締め付けられるのだけど。
「だから今のエカさんがどうやってできたのかを知って、一周回って幻滅とかの気持ちは無くなりました」
絶対嘘だ。強がっているだけなのは明白だ。それなのにバイト君が尊い。
「まぁ、俺はこれからもこんな感じでエカさんに対して変わらないんで。だからまた俺と一緒に遊んでください。店に来て色んな話をさせてください。今のエカさんが楽しいんで」
ヤバい。また泣いちゃう。私はバイト君が目を閉じて横向きなのをいいことに、天を仰いだ。
どこまでこの子は無条件に優しいのだ。私はバイト君を突き放すつもりで話したのに勘弁してくれよ。そんなことを言われたら抑えていた独占欲が溢れる。今バイト君が言った「変わらない」を信じたい。私に向ける感情をこのまま信じていたい。
あぁ、でもダメだ。たぶんバイト君はこんな話をして、余計に私に対して積極的にはならないだろう。私からの信頼を守ろうとするだろう。それならば仕方がない。方針もやり方も変える。
とにかく今は泣いてしまいそうだ。だからこの話はおしまい。私は話題を転換した。
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