第四章
第四章 第一節 野獣の独奏
真夜中のゴッドロックカフェのステージ裏控室。小上がりで畳敷きになっているこの場所で俺は至福の一時を迎えていた。右頬の柔らかな感触からエカさんの母性を感じる。
ヒナさんの運転で備糸市まで戻って来た俺たちだが、エカさんが俺の怪我の介抱をすると言って俺たち2人はゴッドロックカフェで下された。大和さんは既に帰宅したようで、ヒナさんは大和さんがいないことに俺を罵倒してから去って行った。
「横になって。頭はここに預けて」
そして控室に入ってエカさんから言われたのだ。エカさんは正座して自分の太ももをポンポンと叩いた。俺は戸惑ったが怪我によって受けたストレスを癒したく、結局エカさんの厚意に甘えた。
怪我をしたのは左側頭部なので今俺は右を下にしてエカさんの膝枕に溺れている。帰りの道中で出血はもう止まっていたが頬も殴られているので、エカさんは氷をタオルで包んで傷口に優しく当ててくれたり、額を撫でてくれたりと、こんなに幸せな時間があるなら頑張って良かったと浮かれている。
「病院行ってね」
「これくらい平気っす」
「ダメだよ」
「事件化されても面倒だし、大丈夫っすから」
「もう。じゃぁ、もし吐き気や眩暈とか何か異常が出たらその時はすぐに行って」
「わかりました。その時は行きます」
「約束ね」
「うっす」
あまりにも心地良くてこのまま眠ってしまいそうだ。
「今日は本当にありがとう」
「うっす」
「バイト君がヒーローに見えた。凄く格好良かった」
「うっす」
薄い返事をするものの、ヒーロー万歳、と内心では飛び上がった。しかし勘違いはしない。エカさんには恋人がいるから。
ただエカさんの言葉や今の体勢に浮かれているばかりではいけないことを思い出した。俺が真っ先にしないといけないことがある。俺は一度上体を起こすと、正座した状態でエカさんに正対した。
「エカさん、すいませんでした」
俺は頭を下げた。エカさんはキョトンとした顔をする。
「ん?」
「俺のためにせっかく紹介してくれたバンドなのに、俺がトラブルを起こして紹介者のエカさんの顔を潰しました」
そう、俺が一番反省しなくてはいけないこと。唯先輩に言われた事の本質。自分の利益のために取り計らってくれた人への義理は、絶対に通さなくてはならない。仇で返すのはもってのほか。それを俺は今回勉強した。
「ふふ」
するとエカさんは弱く優しく微笑んでくれた。
「もう気にしてないよ。むしろさっきヒナに聞くまで、オーロラがあんなバンドだなんて知らずにこっちそこ紹介してゴメン」
「いえ。俺の方こそ気にしてません」
俺たちは仲直りをした。安心した。清々しい。
「前に一度、他のベーシストも紹介してるんだけど、その人も長くは続かなかったんだけど、オーロラの本性を今まで知らなかったからその人にも謝らなきゃ」
俺が最初ではなかったのか。エカさんにとってそれは心が痛んでいることだろう。
するとエカさんは再び太ももをポンポンと叩いた。まだその柔らかさに溺れていていいんだ。一気に嬉しくなって俺は甘えた。
「カレシいるのに俺とこういうことしてていいんすか?」
「ん? カレシなんていないよ? 言ったでしょ?」
いまだ惚けるらしい。まぁ、いいや。あまり深くは詮索しないでおこう。
「あのさ……」
「なんすか?」
するとエカさんが言いにくそうに切り出したので、俺は先を促した。
「幻滅されるのはわかりきってるんだけど、私のこと知ってほしいなって思ったから少し話してもいい?」
「はい、どうぞ」
「半年前に別れた元カレなんだけどね、その人もバンドマンなの」
「そうなんすか?」
「うん。対バンで知り合った人。メジャーデビューを目指してて、けど食べていくのもままならない状態だった」
あれ? 最近誰かとそんな話をしたな。嫌な予感がしてきた。
「私はね、その人に定期的にお金を渡してたの」
「あぁ……」
やっぱり。面倒見が良くて世話焼きで、そして人をすぐに信用してしまう。そう、人をすぐに信用するエカさん。なんとなく先が読める。
「カナメが私のことを尽くすタイプだって言ってたでしょ? 私が現役の時に交流があったバンドマンの中でも知る人は知る話。結局、元カレにとってそんな女は私以外にもいて、それがわかって別れたの」
予感的中。しかしエカさんの遍歴はまだまだ続きがあった。
「私はね、元カレに渡すお金を稼ぐためにパパ活を始めた」
「そんな経緯で……」
「ごめん、実は前にバイト君と話した時、私嘘を吐いた」
「ん? 嘘?」
「その頃はパパ活の相手をネットで募集してたの」
「げ……」
確かに引いた。幻滅までは……いや、したと思う。苦い味が口の中いっぱいに広がる感じだ。それでも一度惚れた女性に対する気持ちは簡単に冷めないから余計に苦しい。
「その中の1人のパパがね、何度目かのデートの時に私の飲み物に薬を入れたの。信用してた人だったんだけど」
なんだかもう泣きたくなってきた。聞きたくない。それなのに先を促す気持ちもある。けど何も言えないから口を挟まずに耳だけ傾ける。
「私はそれに気づかず飲んで、意識が朦朧としたところでどこかの部屋に連れ込まれて……」
今日も同じようなことが起きかけた。しかも今日は男の人数が多いから質が悪い。
「その時は助けてくれる人もいなかったから、早く終われってそればかり思いながらやり過ごした」
正直、尊厳を奪われた女の人の気持ちを俺は理解できない。いや、もし自分が生理的に受け付けないような男から同じことをされたらと考えてみた。するとなんとなくその気持ちに近づけたかも。ゾッとしたし、死にたくなったし、心が無くなるような感覚だ。
「けど今日はバイト君が助けに来てくれて本当に嬉しかった。ずっと怖くて泣いてたのに、それが途中から嬉し涙に変わって、最後は安心して泣いてた。泣き虫でごめん……」
「いえ……」
「薬を盛られた経験があったから今ではパパ活も制限してるんだけどね。貢ぐ相手ももういないからそこまで稼ぐ必要もないし」
そう言えばバンド時代に私的交流をしたパパがまだいるんだった。
「今のパパはどんな人っすか?」
「それは言えない」
「そうっすか」
「うん。バイト君だからバイト君にだけは絶対に言えない」
言っていることの意味はわからんが、頑ななことだけは理解した。
「私、こんな感じで男運悪いから最近は男の人とあまり深く関わらないようにしてたの。だから本当にカレシいないよ?」
「え? でも単車で二人乗り……」
深く詮索しないつもりだったのに、エカさんから話を戻されて思わず口を吐いてしまった。
「二人乗りって?」
「えっと、いつもエカさんが来店する時に貸しスタジオに入ってる高校生と……」
「ん? もしかして恒星のこと言ってる?」
「はい」
エカさんはキョトンとした様子だ。それがなぜなのか解せないが、名前で呼ぶほどの仲で――と言ってもバンド交流があると名前で呼ぶことが圧倒的多数だが。唯先輩然り。エカさん然り――そして仲良さそうに身を寄せ合って。
「恒星は私の弟だよ?」
「………………ん?」
なんだと! あのクソ生意気な男子高校生がエカさんの弟だと!
「あはは。苗字一緒でしょ?」
「エカさんの苗字って……?」
「あれ? 知らなかったっけ? 児玉だよ。児玉江香。ラインもそのイニシャルだし」
「……」
何も言えねぇ。ラインの「EK」は「EKa」じゃなくて「Eka Kodama」の意味だったのか。現役当時のピンキーパークはゴッドロックカフェの貸しスタジオを使っていなかったから、メンバーの会員証もなくて知らなかった。
「ラインはネットのパパ活の時の名残で、身バレを防ぐために本名避けたんだよね。アイコンもぼかしたし」
笑いながらエカさんはそんなことを付け加える。
「もしかして妬いてくれたの?」
「……」
だから何も言えねぇ。大人の余裕で魅惑的な笑みを浮かべてそんなことを言うのは止めてくれ。
「本当に君は可愛いなぁ」
ちくしょう、経験乏しい自分が恨めしい。エカさんに遇われてばかりだ。まったく敵わない。
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