承久の乱と兄
知った事か、勝手にしろ、好きにすればいい。そんな言葉が頭を駆け巡っていたのはこの前だった。
今頭の中を巡っているのは、案の定、言わない事か、ああやっぱりなという言葉ばかりだった。
「内応する者はまるでなく……」
「北条政子めのせいで…」
当たり前の結果だ。もっとも、それが当たり前だと気付かされたのは、あの女のせいだったのだが。
実際、父の名によって北条義時討伐の院宣が下された結果、幕府の内部はえらく動揺していたらしい。義時本人もひどく困惑していたとの事だ。
だが、北条政子はその動揺を一発で吹き飛ばしてしまった。
細かい演説の内容はわからないが、武士が今日の繁栄を築き上げられたのは一体誰のおかげか、頼朝のおかげであろう、朝廷のおかげではないと言う内容らしい。
確かに、もしこのまま父の手によって幕府が潰れれば、父は武士を保元・平治の乱以前のように単なる貴族の護衛に成り下がらせるつもりだろう。それだけでなく、武士たちの所領を取り上げ天皇家や貴族たちの物とするだろう。
武士たちには、前者以上に後者の事態が耐えられなかったらしい。
源氏や平氏だけでなく、地方の豪族たちが自衛のために武装を整え、武士化した例は我々が気付いていないだけで山とあった。
その者たちにとっては帝や朝廷の権威など知った事ではない、自分たちの所領が第一なのだ。その所領を保護してくれる存在こそが、彼らにとっては仰ぐべき主なのだ。
そしてそれは鎌倉幕府であって、朝廷ではなかった。彼らにとって朝廷の権威は未知の存在であり、空虚な存在であり、文字通りの空威張りに過ぎなかった。
もっとも院宣が全くの無駄と言う訳ではなく、武士たちの心を揺り動かす事には成功していた、しかし北条政子の演説の力の方がずっと勝っていたというだけの話である。
「武士どもは天下が誰のものであるかわかっていないようです、全く嘆かわしい!」
弟はそう憤慨していたが、考えてみれば天下は元から天皇家の元にはなかったのかもしれない、いやなかったのだ。
武士の頭である平清盛が太政大臣の位に就いたのはもう五十四年も前である。
平家にあらずんば人にあらずなどと言われた時代、位人臣を極めた平家の棟梁が天下人でなければ誰が天下人だと言うのだろう。
その後頼朝が武士の頂点に立ち、幕府と言う武士の政権を立てた。その幕府が始まった時から数えてももう二十九年経っているのだ。
つまり既に二度に渡って武士による政権が確立され、そしてもう十分すぎる時が流れていた。既に武士が政治の中枢に携わるべきと言う考えはこの国に深く根を下ろしており、今さら院宣一枚でどうこうできる存在ではなくなってしまっていたのだ。
しかし言い訳でもないが、その事を悟っていた所でどう諫言しても父と弟を止める事はできなかっただろう。
「兄上はこのまま武士などの政権に頭を下げ続けろと言うのですか?まったく、世も末ですね……」
「お前がそう思うのならそうなんだろうな」
父と弟にとっては武士の政権などほんの仮初めの政治形態であり、そのような物が成立した事自体が「何かの間違い」であったのだろう。それが「たまたま」二回も成立してしまっただけであり、父は元よりそんな物を認める気はなかった。
下手すれば頼朝在世の時から、幕府を潰す事を考えていたのかもしれない。あるいは、その前の武士の政権である平氏の政権が案外簡単に崩れた事に味を占めてしまっていたのかもしれない。
いずれにせよ武士の政権と言う物自体があってはならない物に見えていた父にとり、それを取り除く事こそ自分が成すべき当然の行いであり、それを実行に移さない事こそが何よりの罪であったのだろう。
そういう根拠に乏しい使命感に支配された人間に、何を言っても無駄だったのかもしれない。
「まだ勝つ方法がない訳でもない」
「何ですか」
「お前や父上が自ら馬上の人となり、錦の御旗を掲げればできるかもな」
院宣と言う紙一枚では動かなかった連中も、錦の御旗を目の当たりにすれば心が揺らぐかもしれない。
しかしそれを実行できるかどうか、少なくとも私にはできる自信がない。これまで散々弟に馬鹿にされてきたが、実際死を恐れない鎌倉武士たちに刃を向けられたらと思うと背筋が寒くなる。
「兄上がやってくださいよ」
それで返事がこれだから、いよいよ頭が痛くなってくる。
「責任者は父上とお前だろうが」
「もう兄上には何も頼みません!せいぜい武士どもの靴でも舐める準備を整えておいてください!」
どんなに居丈高に振る舞っても父も弟も所詮皇族であり、血塗られた戦場に行く事自体が間違いだと言う考えの持ち主だった。もし武士ならば、勝利のために躊躇いなく戦場に姿を出す。それをしようとしない時点で、全ての運命は定まっていた。
私には、もうどうする事もできなかった。できる事があるとすればただ一つ、北条の旗が京に迫って来るのを待つ事だけだ。
「武運を祈っておるぞ」
私はほんの少しだけ父と弟を哀れみながら、兄としての言葉をぶつけてやった。
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