次期将軍と弟
もう、あらゆる意味で限界だった。
「承服できかねます」
一人にそう言わせればいいだけなのに、たかがそれを言いに来るためだけに千人も兵を連れてやって来るとは、傲慢どころの話ではない。
いや、この将軍不在の状態が続けば困るのは幕府のはずなのにどうして拒否して来たのか、それがまずわからなかった。
鎌倉幕府などと言う壊れかけの存在に、我が弟をくれてやる道理などない。その弟の代わりに源氏の一族とは言え九条三寅と言う乳飲み子をくれてやると言う父の判断には、さすがに良心が痛まなかった訳ではない。
だが、私に言わせればそれもこちらの当然の要求を撥ね付けた頑迷な鎌倉の連中のせいだし、父もそう思っていた。これは父自らから聞いたから間違いない。
もちろん雅成が駄目ならば三寅が欲しいと言う、向こうの要求を撥ね付けてやっても良かっただろう。それを父がしなかったのは、流石にこれ以上の要求を続ければ世の人間から白眼視されるのが自分たちだと読んだからだ。
これもまた、父自らより聞かされたから間違いない。
「考え直してはくれないか」
兄はもう話にならない。天皇をやめて、いややめさせられてだいぶ経つと言うのに、未だに自分が天皇であるかのようにこちらに言葉をぶつけて来る。
考え直せるはずもない。あんな幕府に存続する価値が存在するようには思えない。存続する価値がない物を潰して何が悪いのだろうか理解に苦しむ。
大体、血統の正統性から考えれば三寅はれっきとした源氏の縁者であり、雅成は源氏と何の関係もないただの皇子だ。なら最初から三寅をくれと言えばよいのだ。
それをしない時点で北条氏が源氏を蔑ろにし、幕府を私物化している事は明白な事実ではないか。
それが兄に言わせると幕府は朝廷を大事にしていますよと言う事を世に示さんとしていると言う解釈になるらしい。まったくおめでたいと言うか、お人好しと言うか、臆病者と言うか……いずれにしてもこの人には正直愛想が尽きた。
「戦になるとして、北面の武士たちが鎌倉武士団と戦えるのか?」
「お眠りが浅いようですね、今度良薬をお送りいたしますよ」
兄は結局、鎌倉武士団の刃が自分に向けられるのが恐ろしいのだ。そう考えるだけで夜も眠れない日々を過ごしているのだろうと思うと、同情心が湧かない訳ではなかった。
もっとも、それは空が落ちるのを危惧するような事だ。鎌倉武士団全部を相手にするなどと言う馬鹿な事を私と父が考えていると思っているのだろうか、この兄は。
「北条義時を討てば良いのですよ、北条義時を」
敵は北条義時一人。それがこちらの編み出した手段であり、偽りのなき事実であろう。大体、頼朝の死後幕府に次々に内輪揉めが巻き起こった、その結果一番得をしたのは一体誰だろうか。北条義時しかいないではないか。
真偽はともかく、実朝暗殺も義時が仕組んだことだと言う話も出回っている。その最も甘い汁を吸っている、最も征夷大将軍源実朝の真の暗殺犯として疑わしき立場である義時を討つ事に、世間の誰が反対すると言うのだろうか。一族以外、幕府の中でも義時を擁護する者はいないだろう。北条によって追い落とされた者たちも、待ってましたとばかりに我らに参じるのは決定的だ。確かに鎌倉武士団は死をまるで恐れない我らから見れば理解しがたい連中だが、その鎌倉武士団がズタズタになるかさもなくば味方になるかという展開が見えているのに、我々が負ける条件がどこにあると言うのだろう。
「わかりましたよ、幕府が必要だとおっしゃるんならば残しておいて差し上げますので。何なら征夷大将軍やります?」
「……好きにせよ、吉報を待っておくと伝えておけ……」
まあ、兄の言う通り幕府を残しておいても悪い事はないかもしれない。義時を打倒した連中が、その後どう動くか正直わからない所がある。その連中の抑制装置として、幕府にも存在価値があるかもしれない。
いや連中を大人しくさせるのに、武士である源頼朝が作った幕府と言う代物よりよき器は見つかりそうになかった。そして、武士連中を手懐けられる器の主としてふさわしいのは、武士の受けのいい兄しかいなかった。
こっちがせっかく理想の条件を提示してやったのに、兄は投げやりな事を言ってとっとと帰れと言わんばかりに手を振った。
あるべき所にあるべき物を戻すだけ、それだけの話だと言うのに、なぜ兄はわかってくれないのだろうか。私には、兄の柔弱さがどうにも耐え難かった。
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