羨望されたドブネズミ
下水道には、未分解の糞便や見知らぬ生首が今日も流れていた。
釣り糸を垂らすのは、今ではない。こういうのはタイミングが問題だ。
早すぎたら生首を引っ掛ける。そうすると針がだめになる。人の首から上だけで軽く五キログラム前後はある。新生児より重たいものを引っ掛けたら、貴重な針をダメにする。
おそすぎるとなおまずい。寸でのところでのがしたとしても、針をかける先は下水だ。蜘蛛針を使っているから、下水に触れさせたら厄介なことになる。しかも、生首みたいな得物があるわけでもなく、ただ損失が増えるだけだ。早すぎるより悪いことになる。
だからおれはじっと水面を見つめている。ときおり、こちらに目を向ける生首にガンつけられている気分になる。が、それも耐える。疑問も抱かないようにする。なぜこんなに生首があるのかを考えたり、なぜ包装済みの食料や質のいいジャンクが流れてくるかを考えていたら、けっきょくなにも得られないからだ。
そのとき、足場が揺れて、鉄の擦れる音がした。おれは立ち上がり、レールに沿って走る。レールと壁との間にはほとんど隙間がないが、たまに、まだ人が整備していた名残なのかくぼみがある。場所を決めて座っていたから、その退避場所へ向かう。
ゆっくりと擦過音が近づいてくる。震動が大きくなる。くぼみの天井に両手を当てて、ぐっと身体を押し込める。スペースはなるべく大きいほうがよい。そうしてじっと息をひそめていたら、作業ロボットが目の前を通り過ぎた。
顔を出して、側面を見る。卵型のボディは淡く発光しているように見える。おそらく、蛍光塗料がきれいに塗られたばかりなのだろう。その新人さんは前面に取りつけられたセンサーで水面の生首を感知しては、アームを伸ばして腹のなかに回収していく。
ときおり取りこぼして、ぼちゃんと水を跳ねさせたら、それには意識を払うことはせずにさっさと次の現場へ行く。おそらく、次にその生首を感知した同業が回収すればよい、という判断なのだ。大きな組織はそこが強い。
おれは息を吐き出すと、ズレですきまができそうになったマスクの位置を調整した。そろそろ新しいマスクを買わなくてはいけない。そう思いながら、ふたたびレールに腰を下ろして、流れていく水面に目を凝らした。
下水道には夜がないから、こんな生活をはじめてからどれくらいの時間が経ったか思い出せない。
会社からクビを言い渡され、職安へ向かい、あらたな職を求めようとしていた矢先、急になにもかもが嫌になった。というか、ばかばかしくなった。そのことだけは覚えている。
この国では貧しくなればなるほどより豊かになる道が閉ざされていく。過剰な税金と過小なサービスのおかげで、なんらかの組織に所属できなくなったら、手詰まりになる。
家族のような、社会に宙吊りになった個人を維持する共同体があれば、社会復帰のチャンスはあるだろう。だが、そうすることで失われるものは多い。個人的な信頼関係、友人との間における立場、そういった、いろいろ。想像しただけで、嫌気が差した。
お前も男なら家庭をもって自立しろ、といって一方的に縁を切った親父に頭を下げなくてはいけないかと思うと、それは死んでもいやだった。
仮に社会的保護を求めるとしても、縁者には連絡が行く。おれのちっぽけな、それでもおれをおれたらしめていたプライドみたいなものはそうして踏みにじられてしまう。
気がつけばホームセンターでバールを買って、手頃なマンホールのふたをこじ開けていた。そこに飛びこぶまで迷いはなかった。
ぼちゃん、という音に我に返る。放り投げた釣具はねらいをはずし、糸まで下水についてしまっていた。
悪態をつく。あくまで、心のなかで。声にしたらさっきのロボットにバレるかもしれない。せっかく出来た安住の地を、そう簡単にフイにするわけにはいかない。
リールを回して糸を回収する。先端は案の定、どこか粘着質な水で汚れている。たとえ布で拭っても、これで釣りをする気にはなれない。消毒液のたぐいは高値で取引されている。結び目のところをニッパーで断ち切り、釣具をゴム手袋のうえに落とす。振動を接触と勘違いして、放射状に開かれた足が閉じた、 動作は良好。空振った足を元の位置に戻す所作も、入手した当時と変わらない。汚れたことを除けば新品同様の状態だった。
後で換金所に持っていくために、かばんの保存スペースに放りこむ。今日はまだ得物をあらたに手にしていなかった。新しい釣具を先端につけて、おれは水面に視線を戻した。
ロボットの巡回を三度やり過ごしたあたりで撤退を決めた。ビニル包装された干し芋と、用途不明のジャンク品を回収している。これ以上得るものはなさそうだった。
重い腰を上げて、換金所へと向かう。
地下水道は自己生成するネットワークだ。どこかが壊れたらロボットが補修し、つながっていなかった水路をつなげる。脳神経の修復めいた自動化のおかげで複雑性は増すばかり。おかげで過去に、空き地が塊となって生じたらしい。おれが来たときにはすでに、地下には広場があり、そこに町らしきものができていた。
下水の匂いを露天商の焼き菓子が覆ったあたりで保存容器を鞄から出す。Y字路となった連結部を左へ向かい少し歩くと、水流を堰き止める壁を通り、それから視界の底が明るくなってくる。
もう水路に水は流れていない。手頃なところではしごを降りた。マーケット群が道の先にあった。
保存容器を取りだして早足。だが、しばらく歩いたあたりで、とつぜん誰かに足をつかまれた。あやうく転けそうになる。顔を向けると、惨めな布切れに身を包んだ男が、おれをじっと見つめていた。
やけにけばけばしい化粧をしているのが、格好の印象と一致しない。おれは足を動かして、腕を振りほどこうとする。すると男は、いっそう力強く足を掴んだ。
「あんた、あんただね。夢に見たんだ、アタシ」
「おれはおまえのことなんか知らない」
「メシヤなんだよ、信じなさいよ、あたしじゃないわ、アルテミスよ」
男は惨めったらしい声を出しておれにまとわりつく。コートの上からでも汚れた指先が肌を這いずり回るような、気持ち悪い感触がした。男の指は変形して、子供が壊したたこのおもちゃの足のようになっていた。
「考えてみたらあたりまえのことだけど、あたしたちがこうして生きていることも織り込み済みで、やつらはこの社会を作っているのよ。組織のメンバーや、その庇護を受ける連中が、ときどきいなくなって、数合わせのように新顔が現れる。どうしてだと思う? そうデザインしているからよ。あたしたち生命という現象がどのように発展していくかは計算不可能かもしれない。だけど、認知と心理の大きなスケールでのパターンは容易にモデル化されうる。ことなるのはわたしたち一人ひとりが返す反応の係数が異なる点。地上でも地下でもわたしたちは監視されている。監視が嫌でここへ来たっていうのにね」
「離してくれ」
「でもあんたは違うのよ。あんたはただここへ来たのよ。ミズヌマのアルゴリズムはあんたみたいな完全なランダムを予想してなかった。だからあんた救世主なのよ」
「どうしておれのことを知ってるんだ」
「美術館で会った人でしょおアンタさあ」
口の端から泡を吐きだす男が気味悪くなって、気づいたときには拳を顔面に振り抜いていた。いやな手ごたえがして、男が離れた。しゃがみこんで、力の抜けたまぶたを開く。生きているらしいが、気絶していた。
人を殺したわけではないが、放置していると危ないかもしれない。こんなことで人殺しにはなりたくなかったから、おれは換金所へ行く前に、診療受付の屋号を出した親父に金を握らせた。
それからすっかり忘れていたその男のことを、アルコールがとつぜん思い出させた。
そのときおれは名前も知らない同業者諸君と、よごれをはらったビール片手に、マーケットの端で円陣をつくっていた。
串焼肉をもう片手に持ち、おのおのの作業場の様子を話しあっていたのに、おれは思い出し笑いのせいで、みんなにその男の話をするはめになった。
おれは適当に脚色して、滑稽な男の声真似をした。これが大いに受けた。酔っていると、公設の判断が逆転する。くだらないものほどおもしろいことになることがある。おれはいっそう下品に真似た。みんなはげらげらとわらった。
話も終えて話題を変えようかという潮目で、白髪のじじいが串の先でおれを指差した。
「そんで、おまえそのきちがいをどうしたんだよ」
「どうもしないよ。放っといたさ」
「会いに行かなかったのかい」
「会いに行くのか、あんただったら」
からかい調子に言うおれに、しかしじじいは真剣な顔で鼻息を吐いた。
「その男の話はな、どうも一理あるように思われるんだよ。やろうとおもえば取り締まれる。けれど取り締まったら息苦しくなる。息苦しくなると、腹が立つ。腹が立つから、お灸をすえてやろうという気持ちになる。この国のひとびとはみんなそう考えてきた」
「嘘こけ! お前ら世代だけじゃねえかよ」
誰かが野次を飛ばした。じじいは気にした様子もなく続けた。
「が、その態度が良くなかった。裏を返せば、ちょっとくらいの悪事でも、多数がまあまあの暮らしをしていられるなら、見逃されるっていうことだ。どうだい。それをわかってるから、お上の奴らアはおれたちみたいなのを、意図的に残してるんじゃないのかい」
「知るか」
おれは言い捨てながら、納得している自分を偽れずにいた。
「うそでもすがってみたいと、ちょっとくらいは思わんかね。もしかしたらほんとうに、おまえは状況を変えられたのかもしれないんだよ」
その言葉はやけに引っかかり、おれは結局、寝床のくぼみに戻っても、目がぎんぎんに冴えてしまった。
軽く寝ることはできたが、夢の中で憎たらしい地上が思い出された。能力がなければ生きることも許してくれない地上のことが。なにもできないろくでなしは、ドブネズミで十分だと上司に言われた。言われなかったかもしれない。現実の上司はやさしかった。だがおれは内心でつぶやかれたその言葉を聞いた気がした。だが気がしただけかもしれない。
喉のつまるような感覚で目がさめて、首の上に重さを感じた。ネズミだった。
思わず飛び起きると、ネズミはチュウと一声鳴いて、壁を伝って走り去った。はっと気づいて保存容器の無事を確認し、つづいて食料袋をたしかめる。するとそこには穴が空いていて、保存してあったクッキーがきれいさっぱりなくなっていた。
本当に俺がメシヤだったら? 昨日から考えていた悩みは、その瞬間にきれいさっぱり、あらたな焦燥感に取って代わられた。このままだと、おれはヤバい。なにせその食料袋は、三日はゆうに生きられる程度のクッキーを詰めこんでいたのだから。
今日を生きることで精一杯の人間に、他人のための自己犠牲なんてやる余裕がない。おれは自分にそう言い聞かせて、またレールの上を歩き始めた。
だけど、どうしても。どうしても、あのネズミのことが、頭によぎってならなかった。レールの上を走ることなく、自由にどこかへ走り去ることができたネズミを。
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