不死人のための最高の娯楽
彼が酒場に入ってきた時、異様なまでの盛り上がりは突如として沈黙へと変わった。誰しもが彼を見つめた。彼は白く、美しく、猥雑なこの酒場にあって、眩しかった。
ゆるく波打つ金の髪は肩口まで伸びて、細い肩に打ち寄せている。彼は物憂げに目を伏せたまま、人々の合間を抜けると、カウンターバーに肘をついた。
取り出した細いシガリロを咥え、火を点ける。桃色の唇でそっとはさんで、ポケットをまさぐる。彼がマッチを見つけるより先に、シガリロの先端に火が差し伸べられた。彼は息を吸いながら、火の持ち主を一瞥する。吸い込んだ煙をゆるゆると吐き出しながら、彼は顔を上に傾けた。
誰もがその美しさに見とれていた。
「ありがとう」
「え?」
「火だよ」
シガリロから口を離すと彼は言った。
「名前は?」
「マルコだ」
「どうして静かになったんだろう。賑やかそうだったからお邪魔したんだけど」
マルコは開いたり閉じたりする唇から目を離せないまま、エールに酔っ払った赤ら顔をぶるぶるっと震わせて意識を保ち、それはな、と続けた。
「それはな、あんたが勝負の邪魔をしたからさ。男たちの真剣勝負、一世一代の見ものだよ。命を賭したゲームってのは、誰の目も奪ってみせるのさ」
マルコは努めて大きな声を出して、握っていたジョッキをぐっとあおる。一パイントあったマルコの酒もそれで尽きた。マルコはおかわりをねだった。
「誰かいねえのか!」
しかし誰も答えなかった。誰もが勝負事の見物人になっていて、仕事にならなかった。その上、彼の登場ときた。どうしようもないわけだ。
「ちくしょうめ」
マルコはぶつぶつ言いながらカウンターの向こうに行き自らのジョッキに酒を注ぐ。誰も文句を言わなかった。野次馬は彼と、勝負事との間で視線を揺らしている。彼はしばらくぼんやりとたばこを吸っていたが、そのうち振り返ると、野次馬たちの視線を追った。
彼が通り過ぎた人波は大きな樽を囲んでいた。樽のそばには三人の男が立っていて、それぞれにらみ合いを続けている。一人は髭の生えた中年で、もうひとりは若々しい好青年だった。もうひとりは女で、この中で誰よりも険しい目をしていた。
女は、ふと、彼と視線を交えた。彼は薄く笑った。女は目をそらした。
彼は三人がにらみ合う中央の、樽の上に、リボルバー銃が置いてあることに気がついて、だいたいの事情を承知した。
「おい、あんた。名前はなんていうんだ」
「あの三人はどういう関係だ?」
彼はそれに答えなかった。マルコは気にしなかった。酔っていた。酔っていると、どうでもいいことが増える。その場で答えたものが全てだ。マルコは葉巻が吸いたくなって、胸元を漁ったが、すっからかんだった。彼はマルコに自分のたばこを差し出した。
「おお、助かる。……け、薄いな、こりゃ」
「甘いのが好きなんだ」
「そうかい。おれは嫌いだね。甘ったるいのは子供に吸わせろ。女でもいい。もてるだろうよ。そこにいるアイツは違うだろうがな」
「あの女かい」
「リンダというんだ、アイツは。その横にいる男はリンっていうんだがな、そいつの幼馴染なんだ。だがリンの親父のチャルズはリンダが花嫁になることに反対した。それで喧嘩さ」
「婚約者だったのか、あの二人」
「あんたにはあいつらがどう見えたんだ? じじいを取り合う恋のライバルか。そんなわけがないだろう。
だが、女が賭けに参加しているのは珍しいだろうな。一見して、様子がわからなくても仕方ない。リンダは見た目の通り気が強くてな、自分の親父にも頑として退かねえ。その上、駆け落ちを提案したリンに対しても譲らなかった。臆病者の卑怯者とさんざっぱら罵って、二十余年の不満と鬱憤をぶちまけて、夫婦も終わりかと思いきや、じいさんは娘の罵言を前に、クソ野郎、舌なし娘に生むべきだったと抜かしやがる。
男の友情でもあったんだろうかね。たいそう仲のいい親子と、この町では評判だったが、どうしてどうして。漁師はいつだって荒くればかりらしい」
言い終わる頃にはもうエールを飲み干している。マルコはふらふらになりながら、カウンターにジョッキを叩きつけた。
「てめえら、でくのぼうか!? 早くやれ、おっちんじまえ! 死体を片付けに来て、もう二時間も待たされてるんだ俺は!」
彼はマルコの言葉にクスクスと笑った。ほかに誰も笑わなかった。
「三発打ってしまったんだろう。そりゃ、誰だって怖がるさ」
マルコは訝しんだ。
こいつにこんな話をしただろうか……いや、そんな記憶はない。
が、酔った拍子に話したかもしれねえ。酔うと、記憶になくてもなにかを口走っていることがある。
「なあマルコ」
「なんだ、お前、馴れ馴れしい」
「どうしてあんた、掃除屋になったんだ」
「そんな話聞いてなんになる。腹の足しにしてクソでもしに行きたいのか? 便所は外だ、勝手にしやがれ」
「好奇心だよ」
「俺が生まれつきの度胸者だからだよ。親父が目の前で自殺して、おふくろも殺しやがった。俺は親父を撃ち殺して、しょうがないから墓を作ってやった。腐っても父親だったからだ。それを見ていたやつがいた。いまの俺のボスで、この街を牛耳ってる。そいつは俺に掃除屋を任せた。なんせ、俺は親父の死体も、おふくろの死体も、どちらもきれいに片付けて、部屋も掃除してやったからな」
「そうかい」
「ああそうだ。親父が目の前でおふくろをぶん殴っても、俺はびくともしなかった。ああ殴ったな。それだけだ。それだけだろう? 殴られたのはおふくろだ。俺じゃない。俺は親父から任されてた革靴の手入れをしていたよ。大黒柱はピカピカの靴を履くべきだってのは、そのとおりだからな」
「そうかい、そうかい」
クスクスと笑いながら彼はたばこをもみ消した。おかしそうに口元を押さえる。上品な仕草で、まるでこの場に不釣り合いな優しい笑い声だった。
「だからよ、俺は度胸者だから、ここにいるんだよ。わかるかい、お前よ。名無しのジョン」
「ジョン?」
「ジョン・ドゥだろう、お前は」
「そりゃいい名前をもらった。ありがとう」
爽やかに返されて、調子が乗らず、マルコは苛立たしげに顔をそらす。ジョッキの縁に残った泡をすすって、け、と悪態をついた。
辺りは異様な緊張感に包まれてきていた。彼がやってきたとき、すでに三発が撃たれ、いずれも空だったからだ。その上、彼が来て、マルコと平然と話し始めた。世間話をする調子で、誰かが死んだ話が大声で響く。このままいけばまず間違いなく誰かが死ぬ。そこにあって、誰も死なない様子で話されていると、気が変になってくる。
誰だってそうだろう。目の前で誰かが死んでいるのに、隣で酒を飲みながら、冗談を言われてみるといい。肩を寄せ合う男も女もみな、これから起きることを目撃しなくてはいけない、逃げようにもきかけがなく、動くに動けない状況に、負担を抱いて、引きつった顔をしているのに、平然と日常を送っているやつらを見てみろ。まるで、自分が間違えている気持ちになってくる。樽を囲んだ三人は、初めから示し合わせていて、銃のすべてが空砲だという気がしてくる。そうだ、そうに違いない。そしてからかい調子に、誰かが冗談はやめろといえば、三人も驚いて、動きを止めるかもしれない。そして誰からともなく、びっくりしたぜとか、喧嘩にしちゃやりすぎだろうと、声をかけあえばいい。そうすれば、チャルズもリンもリンダもなあなあになって賭け事を先延ばしにしてくれる。そうに違いない。
そんな、楽観的な妄想が、誰かれとなく訪れて、さあそういうふうにしてしまおうと、場が動き出そうとした。そのときに、ジョン・ドゥが、前に出た。
「なあ、マルコ」
「なんだ、馴れ馴れしい」
「マルコは度胸者なんだろう」
「ああそうだ」
「なら、人が死ぬところを見ようと平然としていられるんだろうね」
「そうだ、それがどうした」
「じゃあ、死体が平然と立ち上がり、さっきまでと同じように話しかけても、マルコは驚かないか?」
「なに?」
マルコは顔を上げた。
「驚かないか? それとも、驚くか?」
ジョン・ドゥは振り向かず繰り返した。
「知るか。そんなやつ、会ったことがないからな」
マルコは五杯目の酒を注ぎにいこうとした。胸騒ぎがしていた。歩調が乱れて、足がもつれそうになった。よろめいた。その腕をジョン・ドゥが取っていた。細い指先は、ジョン・ドゥを支えきれず、よろける。マルコは踏ん張ると、彼の手を振り払った。
「おまえ、自分が死なないとでもいいたいのか」
「実は、そうなんだ。僕は死なないんだよ。昔、君に会ったこともある。樽を囲んでいる老人、チャルズにもね」
そう言われると、そんな気がしてくる。マルコは酔っていた。だからそう思った。そう自分に言い訳して、鼻で笑った。
「死なないジョン・ドゥさんだから自殺しても生き返るってか。へ、おもしれえや。好きにしろよ。勝手に死ね」
「死ねないから困っているんだけどな」
「好きにしろつってんだよ」
ジョン・ドゥは振り払われた手をポケットにやってたばこのケースを取り出した。それからマッチも取り出して、マルコのほうに差し出した。マルコは不思議そうな目で彼の手を見た。
「これを預ける。担保にしてくれ」
「どういうことだ」
尋ねるマルコにジョン・ドゥは答える。
「賭けをしよう。僕は今からあの勝負事に割って入って、誰も死なせずに帰ってくる。僕が帰ってきたら、このたばこと、……そうだな。酒を一杯おごってくれ」
マルコは目を丸くした。そして、吹き出した。
「おい、ムキになるなよ。バカにして悪かった。バカをするんじゃない」
「信じてないね、マルコ。僕は君が驚くことにも賭けようかな」
マルコはジョン・ドゥが変わらず薄笑いを浮かべていたのを見て、笑いを引っ込めた。
「どういうつもりだ。情けをかけたいのか? やめとけ。この街はもとは犯罪者が流されてできた。生まれつきの馬鹿者ばかりさ。お人好しならよそでやれ」
「そんなんじゃないさ。僕はただ君と賭けがしたいだけだ」
「あいつらに命を賭けるような価値はねえ」
「違う。ゲームをしたいだけだよ、僕は。ゲームは、なにより楽しいことだ。命を賭けるゲームは最高の娯楽だ。わかるかい、死ねないとね、死ぬことが娯楽になるんだよ。目の前で起き上がった時の、みんなの驚いたり、泣いたり、びくついてる顔ときたら、たまらない。それに一パイントのエールは世界よりも重たい。それをただでもらえるってんなら、一度死ぬくらいわけないさ」
「ふざけるのもいい加減にしろ」
「だから。僕は君より年上だよ」
「殺すぞ」
マルコが苛立って、二の句を継ごうとして開いた口に、ジョン・ドゥの指が突っ込まれた。ジョン・ドゥの人差し指と中指はマルコの歯に触れると、挟んでいたシガリロをそっと横たえた。マルコは驚いて、目を見開いたまま、そっと口を閉じた。
「噛みちぎったっていいんだよ。僕はこれから死ぬんだから。不死人の肉を食ったら君も不死になれるかもしれないよ」
来店したときと変わらない笑顔を見せると、ジョン・ドゥは指を口から抜いた。マルコがシガリロを咥えると、火を点けたマッチを差し出した。マルコは煙を吸って、吐き出した。
「冗談じゃねえ」
悪態をつきながらマルコは引き下がった。背中をカウンターに預けると、ジョン・ドゥに向き合った。
ジョン・ドゥは踵を返すと、樽の方へ向かった。野次馬たちは自然と道を開けた。信じられないものを見る目で、信じられないほど美しい男の横顔を、後ろ姿を見た。
ジョン・ドゥは樽の前に立った。東西南北のすべてが揃った。ジョン・ドゥは三人を見渡した。
「それで、リンダ、でいいかな」
「誰だい、馴れ馴れしい。人の名前を気安く呼ぶんじゃない。夫人をつけろ、敬語を習ってこなかったのか」
「リン夫人。これでいいかい」
リンもリンダもチャルズも奇妙なものを見る目をジョン・ドゥに向けていた。口を開くことはなかった。警戒した様子で、彼の挙動を見つめていた。
「今から僕はこの銃をとって三回自分に向けて撃つ。するとこの銃は空になり、うち一発は僕の頭を撃ち抜くだろう。もしリンが僕が死ぬさまを見て、気絶とか、なんでもいい、男らしいとチャルズが思う反応をすれば、結婚を認めてやってくれ。で、それから……僕にごはんでも奢ってくれ」
周囲がどよめいた。ジョン・ドゥが口にした言葉と、ジョン・ドゥの正気を疑う声が口々に上がった。しかしそれも、樽を囲む四人の緊張感に圧され、沈黙に変わった。
「お前は、リンの友達かね」
穏やかな声だった。チャルズだった。彼の老いて、日に焼けた肌は、シワが深く刻まれている。そのせいで、干からびた肌に彫られた筋は、一本一本がまるで彫像に彫られた筋のように深く、重たい。そのしわに象られた眼窩から、じっと、チャルズはジョン・ドゥを見つめていた。
「いいや、違うよ」
「では、リンダの友達かね」
「いいや、違うよ」
「誰の味方でもないというのか」
「僕は賭けをしに来ただけだ」
「なら、邪魔をするな。これは我々の問題だ。家族の問題に口を出すことは許さん」
「こんがらがったものは誰かが無理矢理壊さないといけないこともある。家族の問題だから、つながりがある相手だから、お互いのことを知っているから口出しできなくて、止められる殺し合いも止められない。そういうことばかりだと思ったことはないか」
ジョン・ドゥは薄笑いをチャルズに向けた。
「どんないさかいも、敵対している当事者ではなく、その周りがいさかいを大きくしていく。一線を越えると、当事者の意思では止まらなくなる。焼き尽くして、なにもかもどうでもよくなるところまでいかないと止まれない。場を引っ掻き回す誰かがいれば、そいつが両方の責任を預かることができればと思ったことはないか」
「十六にもならない子供が。言葉を選んだほうがいい」
「だから、僕は君たちより歳上なんだよ。まあどうだっていい。とにかく速く済ませよう。時は金なりというものだ。掃除屋に払う金も増えていく」
「お、おい!」
リンが止めに入ろうとしたが、ひらりと身を翻し、ジョン・ドゥは銃を握った。そして持ち上げた時、リンにナイフを突きつけられていた。
「動くんじゃない」
「どけてくれないか」
「その銃で私たちを殺す気か?」
「なんだって?」
「父さんに雇われたんだろう。母さんは死ぬ前に、父さんは殺し屋の親分だと聞いた。あたしが駆け落ちして、手も目も届かないところに行く前に殺す気なんだろう」
がちがちと歯を震わせながらリンダは言った。
整った顔立ちが涙に汚れた。
リンはジョン・ドゥには目もくれず、寄り添うようにリンダのそばに立った。
大丈夫だ、俺が守るから。
月並みな言葉だけど、偽りのない声で、リンは繰り返した。
ジョン・ドゥは笑みを浮かべた。
「どうやら、相応しい相手みたいじゃないか。なあ、チャルズ」
チャルズはあっけにとられていたが、声をかけられて我に返る。
そして今しがた起きたことを見て、得心の言った表情で溜息をついた。
「馴れ馴れしいやつめ」
「うん?」
「こうなることがわかっていたんだろう。わたしが、二人の結婚を許すと。そのために無茶をしたんだな、お前さん」
そうだったのか?
周囲から疑問の声が上がり、次いで、やるじゃねえか、と歓声が上がった。
落ち着いた喧騒が店を包んだ。
背中を預け、たばこを次から次へ吸っていたマルコだけが、緊張を保っていた。
店内の緊張は弛緩し、揉め事が終わっった後の脱力感に包まれていった。
「そ、それじゃあ、お父さん」
「ああ、認めるよ……駆け落ちも、しなくていい。わたしの家を使えばいい。船もやろう。一隻、修理すれば使える。ここから離れず暮らすといい」
チャルズはリンとリンダに向けて笑みをこぼし、二人もまた、安心した様子で肩から力を抜いた。カラン、と乾いた音を立てナイフが地面に転がった。
「ありがとう、お前さんの勇気が私たちを救ったんだ」
「あ、ありがとう」
「ありがとう」
チャルズ、リン、リンダは続けざまにジョン・ドゥに礼を言った。
彼らの表情には笑顔が生まれていた。
ジョン・ドゥは、祝福するように笑顔を浮かべていた。
「それじゃあ、その銃を返してくれないか」
「なに?」
ジョン・ドゥはチャルズに聞き返した。
「その銃は、わたしの先祖が使っていた銃なんだ。大事なものなんだ。返してくれ。もう、必要ないだろう」
ジョン・ドゥはまだ、こめかみに銃口を突きつけたままだった。
「必要ないって、どういうこと?」
ジョン・ドゥは尋ねた。穏やかな声に、チャルズは訝しんだ。
「だから、もうわたしたちの喧嘩はおわった。もう君の目的は果たされただろう。だから、銃を返してほしいんだ。お礼に欲しいというなら、考える。代わりになるものを探してそれと交換にでもしよう。だから、その……」
チャルズは言葉を濁したが、ジョン・ドゥが一向に顔色を変えないのを見て、口にした。
「銃を下ろしてくれないか。そんなふうに向けていたら、まるで……まるで君が、自分を撃とうとしているみたいじゃないか」
チャルズのよく通る声が、喧騒が一瞬止んだ瞬間、ちょうどに、発された。
だからその場にいた誰もがチャルズの声を聞いて、浮かれ気分に水が指された。
もし野次馬たちが騒いでいるときだったら、あるいは、すっかり散ったあとだったら、そうはならなかっただろう。しかしその場にいた全員が、チャルズの声を聞いてしまった。
だから、弛緩しかけていた緊張は、今度は、ジョン・ドゥを中心に、ピンと張り巡らされてしまった。
誰もが口をつぐんだ。チャルズは、奥歯を噛みしめるように頬を引きつらせながら、さあと手を伸ばした。
しかしジョン・ドゥはクスクスと笑った。
なにがおかしいと問いかけるチャルズの目にジョン・ドゥは答えた。
「だから、僕は通りすがりだよ。賭けをしようと言ったじゃないか」
チャルズはなにを言われたかわからない様子でまばたきした。
「だから、言ったろう。今から僕はこの銃をとって三回自分に向けて撃つ。するとこの銃は空になり、うち一発は僕の頭を撃ち抜くだろう」
「だが、わたしは二人の結婚を認めた。結婚を許して、ご飯をおごることが条件だったはずだ。きみにご飯を奢ろう。あの賭けは、もう無効だ。だから……」
「銃を返してほしいと」
「そうだ」
「どうして」
「なに?」
「どうして慌てた顔をしている?」
「それは……きみが馬鹿な気を起こすような気がしているからだ」
「馬鹿な気ってなんだ」
「とにかく、返せ」
「馬鹿な気を起こすってなんだい。説明してみなよ」
「返すのか、返さないのか」
「考えるよ、言ってくれたら」
「自分を撃ち殺すことだ!」
チャルズは声を荒げた。
「自分を撃って死んだらどうする! どうせ死なないようにして、メシでも食べようという魂胆だろう。みたところ金が無いようだ。だが追い詰められているからといって無茶をするんじゃない! 自殺なんて馬鹿な真似はよすんだ!」
「平凡なセリフだな」
ジョン・ドゥは笑った。
「もっと気の利いたことが言えないのか? リンダのほうが随分口達者らしい。ぼけて脳みそを海に置いてきたのか? それとも老いて気でも優しくなったのか」
チャルズはわけのわからない言葉を叫んだ。ジョン・ドゥは笑った。
「そう、そのくらい短気な方が君らしいよ、チャルズ。海の上でも、捕鯨船の復活を願っているくらいが君らしいんだ」
チャルズは動きを止めた。
「……なぜそれを」
「思い出せないならそれでいいさ」
ジョン・ドゥは振り返ってカウンターの方を見た。
「おい起きてるか、マルコ!」
「いい加減にしろ、ジョン」
「なにがだ!」
「からかいたいだけなら他所でやれ! 俺は暇じゃない!」
「おまえとの賭けは終わってない。見てろ!」
チャルズが止める間もなく、誰もがなにかをするよりはやく、ジョン・ドゥはためらいなく引き金を引いた。
続けざまに三回。銃声がした。
固いものが弾ける音がして飛び散ったものが辺りに広がった。
脳の欠片や頭蓋骨の破片の大部分は樽にぶち当たって血の海の中でカビの塊みたいに広がった。
いくつかは宙を舞ってチャルズの顔やリンダの腹を服の上から汚した。
野次馬にもかかる血や飛んだ破片がぶつかった。
美しかったジョン・ドゥの顔は見るも無残に半分が吹き飛んで頭蓋骨の一部位が回転する銃弾に引っ張られるように砕けて散った。
ジョン・ドゥはうつ伏せに倒れた。
悲鳴が上がった。騒然となった店内はパニックに陥った。逃げ出そうとするもの、手当しようとするもの、外に医者を呼びに行こうとするもの、わけも分からず泣き出すものも、みなそうなっていた。ぶつかった腹いせに相手を殴ったものも、殴られた痛みで怒り狂って相手の頬を張ったものもいた。
樽を囲んでいた三人は悲鳴を上げながら、倒れたジョン・ドゥを囲んだ。
マルコは新たに酒を注ぎに行った。
「お、おい、しっかりしなさい!」
「なによ、おきなさいよ、起きろよ!」
「おい、おいあんた、聞こえるか、おい」
「聞こえてるよ」
「ひいっ!」
悲鳴を上げてリンダはリンに抱きついた。
リンは歯を食いしばりながらリンダを背に隠して後退った。
チャルズは腰から力が抜け、尻餅をついて、顔を上げた。
頭部の半分を吹き飛ばしたはずのジョン・ドゥが、立ち上がり、ふうう、と息を吐いていた。
「生きてたろ?」
からかうように彼は辺りを見回した。
ジョン・ドゥの美しい顔は血しぶきにまみれていたが、変わらず美しかった。
変わらず? ――チャルズはとっさにジョン・ドゥを見て、なにかトリックがなかったか確かめた。銃も確かめた。薬莢が残っている。間違いなく、チャルズがこめた弾だ。
死んでいるはずだった。
だが、ジョン・ドゥの頭は元通りになっていた。まるで傷一つなかったように。
チャルズは、そのとき、子供のころ、この男によく似た誰かを見たことを思い出した。だが、すぐに首を振って、否定した。他人の空似であるはずだ。
人間が、歳を取らないはずがない。人間でないかぎり。
ジョン・ドゥは入店したときと変わらぬ笑みを浮かべると、青ざめた顔でビールをあおぐマルコに叫んだ。
「おい、マルコ! 僕の勝ちだぞ!」
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