トーコとミサ、校舎四階、秘密基地にて。

 今日もトーコは授業をサボった。わたしも、今日も付き合った。校舎四階、教室も廊下もない二十畳くらいの手つかずの領域。不要な机や椅子、文化祭まで日の目を見ない様々な道具が雑多に置かれているそこがわたしたちの秘密基地だ。少しジメッとしていて、リノリウムは冷たくて、学校の中でもここは変わったにおいがする。それがいいのだとトーコは言っていた。心がからだを苛むときはここの暗がりがいいのだそうだ。

「夜になると宇宙が広すぎて毎晩泣いてる」

「それ、アニメのセリフ?」

 トーコはうなずく。風が吹きこんで、栗色の長い髪をさあっと押し流す。右手の壁にある取ってつけたような窓と階段の下から授業にいそしむ先生たちの声が聞こえている。埃っぽい空気に包まれても、トーコの髪の毛はきれいだ。

「ピタンコの言葉がうかばないんだ」

 体操座りで、スカートごしに膝を押さえる両手の甲に顎を乗せている。まつげが、くりんと上を向いている。視線は、ちょっと下の方。わたしのことなんて見てない。

「たとえば、私はいまリノリウムの床に落ちて水たまりを作った光ではなくて、反射した光でもなくて、この風の音でもなくて、空気のにおいなんてどうでもよくて、その遠くの果てを見ているの。時間を極限へ推し進めると、空間は極限へ広がっていく。物質をなす原子をなす素粒子たちは互いに関係できなくなるほど遠ざけられて、あとに残るのは、限りなく真空に近似された素粒子の海。もっとも、素粒子たちはさっきも言ったように遠ざけられているから、海なんてほど密度の高い空間はないけれど……私が見たいのは、その方向へ向かう歴史なの」

「……よくわかんないよ」

 わたしは壁に背中を預ける。後頭部を、そっと乗せる。コンクリートの壁は冷たい。いつものように。

「ミサは自分がおばあちゃんになったときの顔を想像できる?」

「んんー……どうなんだろう。それって予想できるものなの?」

「理論的には、できるかもしれない。その人がどういう経験をするかで、皮膚の老化の具合とか、だいたい決まるから」

「そっか。でも、ちゃんと想像できる人、いないんじゃないかな。……あ、でもおばあちゃんみたいになるかも」

「どうして?」

「わたし、おばあちゃんに似てるって言われるんだあ」

 わざとらしく声を間延びさせて、蛍光灯の取り外された天井を見る。影のなかから突き出た、カバーの取り外された取り付け器具。なんていうんだろうね、あれ。

「おばあちゃんの話ってしたよね? えっと、二年前にいなくなった」

「うん」

「おばあちゃん、認知症で徘徊してそのまま……もう八十過ぎてて寝たきりだったのにどこ行ったんだろうねえ」

 トーコは耳にかかった髪をかきあげて、私の方に視線を向けた。

「おばあちゃん元気だった頃散歩好きだったの。一緒によく歩いたんだ。でも、お母さんも、お母さんのお姉ちゃんもみーんな散歩大嫌いなの。ようもなく歩くなんてバカバカしいんだって。ジムいって走るほうがいいって。お父さんの血なんだねえっておばあちゃんとよく話したな」

「それで、似てるってこと……」

「うん。非科学的かな」

「いえ、クセとかそういったものが似通うのは血縁だとよくある話だから」

 関心して相槌を打つ。

「それはたぶん、私の考えてることに近いんだと思う。歴史そのものをミサは自分の顔の中に見出すことができている。私は……それをもっと広い範囲で考えたいんだと思う。だけどそれは科学の領土の外にあるの。骨格模型からもともとの姿を本当に想像することは厳密には不可能なの。恐竜の姿を想像した学者たちもみな、想像力の翼でその断崖を飛び越えた」

「ふうん……なんだかそれ、いいねえ」

「そう?」

「うん。カッコいいなって思う、その表現。トーコって詩とか書いてるんでしょう? だからきっと、そういう言い回しができるんだね。わたし、尊敬する」

「そんなこと……こんなの、役に立たない。ミサは女の子らしい趣味してるじゃない。手芸とか」

「まあ、おばあちゃんっ子だったから。田舎の家にいったらそれしかすることなかったし。……トーコみたいなことできないよ、わたし」

「私だって、そうよ」

 トーコは相槌を打つと顔を上げてしばらくぼうっと外を見ていた。茶色がかった瞳は窓の外に向けられる。わたしはトーコがいう歴史がなにかうまく想像できなかったけれど、なんとなくそれを知りたくて、同じ方向を見つめてみる。

 外にはグラウンドが広がっている。校舎の合間、日影になった白い壁に囲われた向こうに、土と青空と、その間に高い柵があって、ボール受けのネットの向こうには高速道路、行き交う車。

 トーコがみているのはそれではなくて、その向こうにあるもの、だとして。それはどういうものか、想像する。いまを送り出した先にある景色。車が走って、走って、きっと、七十年後にも、この高速道路は残っているんじゃないだろうか。それとも、壊れているだろうか。なんとなく、もしも、ここが更地になったなら、セイタカアワダチソウの群生するうつくしい畑があるだろう。

 けど、それはきっと、トーコが見ている景色ではない。

 彼女はなにを見ているんだろう。わたしが想像できる花畑のそのまた先を見ているのだろうか。それが想像できないことが、もどかしい。

「おばあちゃんって、どんな感じ?」

 突然、トーコはそんなことを言った。

「うち核家族だから、わかんなくて。親戚づきあいもないし」

「帰省とか、ないの?」

 トーコは首を横に振った。

「んー……どんな感じだろう。……遊んでくれる人?」

「それ、友達みたい」

「やることは友達とあまり変わらないよ。お母さんのお母さんで、優しくしてくれて、面倒見てくれて、そんなかんじ……お母さんより、知らない話をたくさんしてくれるとかはあるかな」

「ふうん……」

 視線は向こうをむいていたけど、興味ありげに、トーコは耳を傾けているようだった。

「あ、思い出した」

「何かあるの」

「えっとねえ、手がね、つるつるしてるよ」

「……は?」

「ほらお母さんとかトーコは、すべすべーって感じじゃん。でもね、おばあちゃんが言うにはね、余計なものなにもなくなっちゃったから、つるつるしてるんだって」

「……皮膚が、ってこと?」

「うん」

 トーコは少し考えてから口を開いた。

「どう思うの?」

「どうって?」

「イヤだなとか、そう感じる?」

「ぜんぜん? わたしおばあちゃんの手好きだよ」

 思いがけない言葉にとっさに強く否定した。

「おばあちゃんの手ってね、細くて、まあたしかに脆そうだけど、でも動きもしっかりしてるんだよ。刺繍やるんだけど、すごいんだよ。何十年もやってるからっておばあちゃん言ってたけどね、当たり前みたいに動くんだよ。なめらかに、するするって。見てて気持ちいいくらい」

「自分が、そうなるとしても?」

 質問がよくわからなかったけど、わたしはうなずいた。

 トーコはまた、少し黙った。

 わたしもなんとなく口を開く気がしなくなったので、壁に背中を預けたままずるずる腰を下ろして膝を抱える。同じ体操座りにして、手首のあたりに顎を乗せる。思ったより胸のあたりがキツい。トーコはきれいな形してるからやりやすいのかな。

 顎を乗せると骨の感触がした。硬かった。トーコはこの下のものを見ているかもしれなかった。歴史という言葉を考えてみた。おばあちゃんのことが気になったのは、そのせいかな、と考えた。わたしがおばあちゃんの手になるとき、それは歴史を意味するのかもしれなかった。

 でも、たぶん、刺繍はあれほどうまくなれないだろうな。刺繍、自分でいつもするほどじゃないし。

「……ねえ、ミサ」

「うん?」

 顔をあげると、トーコは私のほうをじっと見つめていた。

「どうして、いつも一緒にいてくれるの?」

「……どうしてって、どうして?」

「私といても、つまらないんじゃないかしら」

「どうしてそう思うの?」

 トーコは答えなかった。

 んん、と唸る。考えて、首をかしげる。

「よくわからないよ。トーコが見てるものを一緒に見れたらいいなって思うだけ」

「私たち、別に長い仲じゃないでしょ」

「え?」

「高校二年で、同じクラスになって……それだけでしょ。何度か雑談はしたかもしれないけれど

「こうしていることは雑談じゃないの?」

「あなたも一緒になってサボる必要はないって言いたいの」

「ああ、なるほど」

 トーコは、なにか言いたげにしていた。ツリ目をさらに釣り上げて口元はへの字になんかしている。

「……怒ってる?」

「ちがう」

 子供みたいに否定するトーコ。なんだか可愛かった。思えばこんなに感情をあらわにするのははじめてかもしれない。けどことさら取り上げる必要もなかった。そんなときも、あるだろう。長く一緒にいるのなら。

「んー……トーコの見てるもの見たいなって、それだけだよ」

「……それだけ?」

「うん」

「……なんで私なの」

「なんでって、なんで?」

「なにが」

「だから、なんでそんなことわたしに聞くの?」

「それは……」

 トーコは言いよどんだ。

「わたしのほうは、理由なんてないよ。トーコのこと知りたいな、ってそれだけ。わたしはトーコみたいにたくさんの事考えられないけど、聞いてて気持ちいいんだ。知らないことばかりだし、見えないものを見ているから」

 急にむず痒そうに、腕をぶるぶるっと震わせた。どうしたの、と尋ねる前にトーコは立ち上がった。顔が赤い。

「ほんとになにも考えてないのね」

「あはは、ごめん」

 笑いごとじゃないわよ、とトーコは溜息をついた。

「……ありがとう」

「……えっと……」

 トーコは、真剣な目で床……というより、わたしの爪先を見ていた。

「……どういたしまして?」

 とりあえずそう答えると、トーコはまた溜息をついた。

 ちょうど、そのときチャイムが鳴った。昼休みがはじまる時間だ。トーコはおもむろに歩き出した。階段の下からは喧騒が聞こえる。いつもなら、もう少ししてから行くのに。

 慌てて着いていくと、階段の途中でトーコは口を開いた。

「ミサは、わたしの書いてるもの、読みたい?」

「……いいの?」

「なんで」

「見せたくないのかなと思ってた

「……気が変わったわ」

「そっか」

 トーコは階段を降りきったところで振り返っていった。

「気が変わる前に私は帰るけど、あなたは?」

 考える前に答えていた。

「一緒に帰ろう?」

 トーコはうなずいた。これから初めておうちに行くのかと思うと、ちょっと胸が踊った。

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