いまだ孵らぬ卵たち

犬井作

あるいはセミのこどもたち

 ひどくセミのうるさい一日だった。朝からずっと、道の並木とかじゃなくて、家の壁にひっついているらしかった。セミのやつは、鳴いてばかりいる。ジーーーーーージーーーーーツクツクツクツクシャーシャーシャーシャー間断なくひたすらに叫びまわっている。うるさくて、耐えきれなくて、嫌な予感がして、家を飛び出た。

 ○は、かわいた口のなかで水分不足のつばがべとべとしてくるのを感じた。唇をなめると塩からかった。○は家のほうを見た。白い、夢に見るような一軒家があった。柵の向こうには、ちいさな庭があり、ひろがる芝生のむこうには、庭に面したリビングが窓で隔てられている。そこに、男はたたずんでいる。ずっとそこにいたのだろう。窓越しに、柵越しに、歩く○を見ていたのだろう。

 男は、○と目があうと、カーテンを閉めた。レースの奥から近づいた影が、男に腕を伸ばして、抱きつく。男は振りむくと、影を抱く。○は前を向いて、アスファルトの坂道を登る。きっと、新しいセミが二匹、あそこで鳴き始めるだろう。

(それじゃあ、私はセミの子か)

 母さんは、と○は思った。あいつがわたしにしようとしたこを知ったらなんて言うだろうか。○は想像した。うそつき。頭のなかで母は叫んだ。目を剥いて、信じようともせず。生命保険をかけたばかりで自殺した父を○は恨んだ。もう一年耐えて自殺していたら、ちゃんとお金がおりた。そうしていたら、母がおかしくなることもなかったのに。あるいは、父さんがツリ目じゃなければよかったのに。○はリュックサックの太い肩紐を掴んだ。アウトドア系のブランド製の、上質なビニルには男の汗が染み込んでいる。それがさけがたい血の繋がりに思えた。

 目の前には、影のない夏のアスファルト。ゆるい坂道の両側に家が立ち並び、顔を上げて、雲を見ようとした時やっとてっぺんがある。ほとんど山みたいな坂道を、○は登りはじめる。はやく◇に会いたいとおもった。向かう先は◇のところだった。

 ◇は○の友達だ。一年前のあの日からの親友。それまではただの他人。目があっても、背ける存在。○はいつだって鮮明に、きっかけを思い出すことができる。

 せまい町中では、不幸な家族は目をつけられる。えた、ひにん、という言葉を○は習った。ケガレがどうこうとだけ覚えている。不幸はケガレなのだ。大人たちが思っていることを、子供たちは盲目的に模倣する。大人たちが避ける家族は、おなじように避ける。ケガレているからだ。

 ○の家族に起きた出来事が○にケガレをあたえたのは一年前。小学校六年生のとき。仲のよかった友達とは、ぎこちなくなって、離れていった。それでも仲良くする友達はいたけど、○のほうから、うっすら避けるようになった。貧乏は日影だ。ふつうの世界は日向だ。日影の住人は光あたる人たちを見ると、その反射光で目がつぶれそうになる。○もそうなった。あっという間に孤立して、中学校に上がってからは、昼やすみや放課後は、暗いところや、狭いところを泳ぐ魚のように回遊した。◇に会ったのは、そのころだ。

 学校の裏には大きな木がある。学校を取り囲む鉄の柵の向こうにまでその枝を伸ばして、体育館の裏いったいに暗い影を落とす、信じられないくらいおおきな木だ。木のそばにはその木のこどもみたいな木々があり、影はところによりいっそう暗く、ともすると昼なのに、明かりを消した部屋のなかみたいに、ぼんやりしていた。○が、そこへいったとき、◇が、カッターナイフを手首に当てていた。

 あぶない、と声をかけた自分をいまの○は滑稽に思う。その意味を理解したあとでは、心配の言葉なんてずいぶんとばかばかしい。いっそうばかばかしいのは、その薄暗がりのなかにあって、透きとおるように綺麗だった◇に微笑まれて、ちがうよ、と言われたとき、心を高鳴らせた自分だ。

 リストカットとか自傷行為といった言葉が○に刻まれたのは、◇の手によってだ。それが、痛みによって存在を否定された自分を浮かび上がらせる行為だと知って、○は◇と、二人並んで、その日は同じカッターで、同じ場所を切りつけた。左手の、手のひらのなか。短い生命線を伸ばすように、赤い線を、刃先でひいた。

「あれ、○ちゃん」

 幼さを残す声。顔を上げるとそこに◇がいた。◇は生まれつききれいに並んだ白い歯をにっと見せて、笑った。

「どうしたの。お出かけ」

「意地悪言わないでよ。一人しかいないでしょ、友達なんて」

 ○がいうと、◇は笑って、坂の上から降りてくる。そうするなんて思っていなかった○は思わず立ち止まった。その◇がぴかぴかの、傷のないスニーカーを履いていることに気がつくと、○はちょっと嬉しくなった。祖母に買ってもらうんだと言ってたものだったから。

 ◇は小学生のころから着ているという、すそのほつれたピンク色のシャツに水色のジーパンを着ていた。年の割に発育がよくないからまだ着れている。けれど、◇のすらりと伸びたほそい手足と、たしかに浮かび上がる輪郭のせいで、どこかアンバランスな感じを出している。◇は○の前までくると、手首をつかんで、引っ張った。

「やどりばに行こうよ」

 ちょっとろれつの回らない声で◇は言った。そのとき、○は気がついた。◇のスニーカーの足の甲の部分は、ぐちゃぐちゃに切り裂かれていた。


 やどりばというのは、漢字で書くと宿場と書く。二人が見つけた大きな木のことで、それは担任の先生が住む大きなマンションの裏を下って、そこにある森をぬけた先の、ひらけたところの先にある。木はほとんど石垣の真上に生えていて、その幹を一周しようとすると、二メートルくらい下の車道に落っこちてしまうようになっている。高低差があるのはここが山を切り開いて作った土地だからだそうだ。

 そこは下り坂だから、木のそばは見晴らしがいい。顔を上げると、空と海とが一望できる。そこから下に、下り坂ににょきにょき生えた住宅地と、そのあいだをうねうね伸びる車道が見える。絵のように均整の取れた風景が、木の真下という薄暗がりでしか見られないことが

 薄暗いところは、空気が湿っている。吸い込むと、鼻をすっと通る感じがする。ひんやりが体を通ると、そこに通路があるのだと思えて、生きていると感じる。だから、ここはやどりばだった。二人が生きるところだった。

 歩いている間、会話はなかった。

 やどりばに着いて○は荷物をおろした。それで仲から水筒を取り出した。水を飲もうとして、いつ淹れたか思い出せいことに気づいた。今日は土曜日で、昨日の夜の散歩のときに持ち出したから、十時間くらいが経過している。そのあいだはずっと冷蔵庫に入れていたけど、そういえば水筒をそんなところに入れる意味はあるのだろうか。

 ○は難しい顔をしていたが、そのとき◇が水筒をうばって、いきなり口をつけたので、あっ、と声を出した。

「古いかも」

「おいしいよ」

 ◇はあっけらかんと言った。いつものことだけど、○は◇の行動に、どぎもを抜かれて、溜息をはいた。砂浜に打ち寄せる波の音が聞こえていた。

「生き返るなあ。ありがとう、たすかった」

 ◇が水筒を返す。受け取って、○も喉を潤した。○のとなりに◇が腰を下ろす。二人は体操座りになった。

 ここでは邪魔が入らない。ほとんど人通りのない場所だから、やどりばは二人の秘密基地みたいなものだ。ここだけで私たちは息ができる。そう、○は思った。

 二人はだまって海を見つめた。太陽を浴びる水面は揺れて光を散らしている。ごおおおと潮風が音を奪っている。鼻も、磯のにおいだけになっている。砂浜はいのちが終わる場所だ。これは死んでいくいのちのにおいだ。◇が昔そういったことを、ここへくると、丸は思い出した。

「いいにおい」

 ◇はうっとりしたように言った。○は同意した。肩の触れ合う距離で、二人は座っている。まっすぐ、前を見つめている。海。

「マスクつけてると息苦しいよね」

「わかる」

「ほこりっぽいしさ」

「つけてると酸素が足りなくなるような気がしない?」

「どういうこと」

「なんか息が詰まるっていうか、歩いてるだけで、だんだん頭がボーッとしてくるっていうか」

「わかる」

「学校閉鎖されてさ、ずっと家にいてさ、私たまに母さんにマスクつけろって言われるんだ。家でだよ?」

「やばいねえ」

「外出てもさ、隣に住んでるヤマシタさんがマスクつけなさいっていうの」

「いやなーそれ」

「いやよね」

 話しはじめると止まらなくなった。ねー、と二人は同意しあった。○は話している間じゅう◇の足の甲を見ていた。スニーカーはきれいな水色をしていて◇のジーンズによく似合っていた。だけどぐちゃぐちゃにされた布地から、白い靴下が見えたりしていて、最悪だった。

 いつから? どうしたの? みたいな白々しいことを○は聞かなかった。◇だって○がどうしてここにいるのかを聞いたりはしない。ふざけあって、笑い合って、呼吸できる場所にくるだけだ。だけど、そのことが今日はやけに気にかかった。顔を上げると、木の枝が揺れている。その隙間から見える光の塊が目を刺した。

 太陽はひどくまぶしい。木漏れ日がいつもよりも多い気がする。そこに触れた肌が、焼けて、穴だらけになると、そこからはたくさんのセミが、もぞもぞと顔を出す。そんなことを○は想像する。

「いつまでこうしてればいいんだろう」

 不意に声がして、それが自分のものだと○は気がついて、はっと口を抑えた。◇は○をじっと見ていた。母親ゆずりの青い瞳が、しずかに○をうつしている。○はひどく恥ずかしくなった。だけど◇は酷薄にわらった。

「どこへいってもおなじだよ」

「そ、れって」

 喉が引きつった。◇は白い手をすっと伸ばした。目の前に◇の体があった。のしかかられるような形になって、○は仰向けにたおれて、肘で体を支える。○のうえを◇は通り過ぎて、木の肌をたたいた。

 かすかな音がした。見てみると、そこにはセミのさなぎがあった。半透明な姿をしていて、なんだかもうじき孵りそうな気がした。

「セミ、きらい」

 ◇が言った時、はじめそれが自分に向けられたことなのかと○はおもった。

「だから、わたしはわたしがきらい。わたし、セミの子だから」

 そう◇が続けたとき、○は言ってることがわからなくなった。

 ◇はもとの位置に姿勢を戻すとゆっくり立ち上がった。○は体操座りにもどって◇を見上げた。○はじっとセミのさなぎを見ていた。

「ママはわたしがしあわせになるのが気に食わないんだよ。なにもかもわたしのせいだと思ってるんだ。ママね、毎日いうんだよ。あんたがいるからわたしはこんな街にいるんだって。それで、いつの間にか、男の人とくっついて、寝室で、セミみたいにうなってる。一年中ずっとそうしてる。セミじゃないのかも。でも、セミなんだよね。うーーーーーーーーー、って言うし、ぎーーーーー、とかいうし」

 首筋を流れる汗が、ャツにしみ込んだ。○は、乾いている部分の布を引っ張り、汗をぬぐった。はしたないとわかっていたが、そうするくせがぬけない。

 セミの子だからだ、と○は思った。私も。

 ◇も、示し合わせたように、シャツを引っ張って首筋の汗をぬぐった。

「この町はさなぎだよ。わたしたちはそこを飛びたつ虫なんだ。でも、蝶なのか、蛾なのか、セミなのか、そういったことは、わからないんだ。わかるのは、出ていってからだけ。いつだって手遅れになんだよ、にんげんって」

 ◇は言った。

「でもね、わたしおもうんだ。わたしたぶんママみたいになる。さみしいんだよね、わたし。いつも、ずっと。ねえ、わたし○ちゃんに抱きしめられたいと思うことがあるんだ。それで、頭を撫でてほしいって。でもそれって、○ちゃんじゃなくても思うことがあるの。だから○ちゃん、わたしのこと嫌いになってね。わたし、だめなやつだから」

 まくしたてるように◇は言った。○は、じっと、聞いていた。◇は泣きそうな顔になった。○は首を縦にも横にも、ふれなかった。

「私のことも嫌いになってよ」

 ○は不意にそういった。◇はよくわからない様子だった。

「私、たぶん◇ちゃんにお願いされたら、何でもすると思う。そうすることで◇ちゃんが私だけ見てくれればそれでいいやと思う。でもそれって母さんがやってることとどう違うのかわからないの。自分を切り裂いて相手に与えるだけに思えるの。だから私、◇ちゃんとおなじだよ」

 ○の言葉に◇は驚いていた。○は立ち上がった。

「私も、セミがきらい」

 泣いていた。○は、自分が、セミみたいな声を出しているのが、いやで死にたくなった。ふと、◇も泣いてることに気づいた。薄くあいた口の間から、ぐぎいーーーーーー、と音がしていた。二人はしゃくりあげた。真っ赤になった目を何度もこすった。

 泣き止んだころ、○は◇に抱きついた。◇は、しばらく○を抱きしめていた。◇は○の重みを感じ取るように、なんどか、腕の位置を変えた。そのうち、○が寝ていることにがついた。◇は○を抱きしめたまま、そっと腰を下ろして、リュックを枕にして寝かせてやった。

 ふとみると、○の足元にさっきのセミがいた。まるで、○を木にでもしてやるように、その靴の裏に足をかけていた。◇はとっさに体をかがめてそれを払った。セミは土の上を転がった。◇はまるでセミが○に取り憑こうとしているように見えたのだった。

 ◇はセミのそばへ寄ると、その小さな体を見下ろした。

「どうしてあんた、土の下から出てきたの。生まれてこなければよかったのに。ばかじゃん。ほんとに。なんでそんなことしたの」

 セミはよろよろと動いていた。

「……セミなんて、いなくなればいい」

 ◇はそういって、セミを踏み潰した。




 二人は、セミがさなぎを持たないことを知らなかった。セミは生まれたときからすでにどう育つか決まっている。さなぎをもつ虫は変態する。もとの運命から抜け出してあたらしい姿をもつ。二人がどんな虫なのか、本当はまだ誰も知らなかった。

 もしかしたら神様さえも。

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