飯塚綾人と白華柚葉の場合
運動会前日のこの日、放課後の教室内は騒がしかった。
それもそのはずだ。ここ二年二組の教室で行われている、青軍のポスター作成が、未だ終わっていないのである。
「これ明日までに終わんのかなー」
「無理っぽくね。あと3日は必要だよ」
ポスター係の何人かがそう弱音を吐く。
皆、やる気もすっかり無くなり、スマホをいじったり、私語を話す者まで現れた。
俺――
すると1人の男子生徒が声を上げる。
「もう止めよーぜ? これでいいよ別に。遠目から見たら普通に完成してるし」
その言葉に皆反応し、次々に諦めモード全開になる。
「そうだなー、これでいっか」
「じゃ、解散って事で。俺帰るわ」
「私も私も〜。この後食べに行かない?」
「お、それいーなー。どこで食べる?」
ゾロゾロと生徒が教室から出ていく。
無責任な奴らだ……せっかくポスター係になったんだから、最後まで仕事を全うしろよ。
龍が描かれたポスターは所々ウロコの部分に色が入っておらず、まるで刀で散々に切りつけられ弱り弱ったような惨い姿だった。
これじゃポスター賞の優勝は無理だな。
「はぁ」とため息を吐き、ポスターを眺めていると、隣に誰かいる事に気付いた。
見ると、女子生徒だった。
小柄な身体に、前髪まで隠れた銀色の髪。
赤ぶちのメガネは、どことなく知性を感じられた。
その少女は、俺以外誰もいない教室で、ただ一人筆を走らせ、龍のウロコを書いていた。前髪をかき分け、彼女の表情が見える。
真っ直ぐな瞳だった。ルビーの宝石でも散りばめたのでは無いかと思うくらい、キラキラ赤く光るその眼差しは、俺の心を一瞬どこか遠くの世界に引き込んだ。
(やらなきゃ)
ハッとして、俺も筆を持つ手に力を入れる。やらなければならない。
完成したらどうなるという訳でも無い。
だけれども、何か悔しいのだ。
途中で止めて、審査員に「はいはいその程度の意識ね」と軽く思われる事がだ。
最後まで諦めたくない。
その一心で筆を進める。すると女子生徒がポツリと呟く。
「貴方は帰っていいですよ」
「何でだ」
「だって……帰りたいでしょ」
「どうだろうな」
龍のウロコは基本的に青をベースとして、色を濃くしたり薄くしたりといった感じで一枚一枚の色を変えていく。
皆が帰る前は一枚ずつどの色にするかワイワイ話し合っていたが、もはやその手間は要らない。俺とこの少女が勝手に決めて良いのだ。
「帰らないんですか」
「ああ、帰らないさ」
「何故です」
「……最後でやりたんだよ」
俺がそう言うと、少女は俺を見て少し気圧された顔をした後、またポスターに目をやり、こう言った。
「真面目ですね」
「お前もな」
真面目で損をした事なんて何回もある。
小学校の頃、飼育委員の当番でうさぎの世話をしていた。
だけど、他の奴らはサボってばかりで、俺一人がうさぎの面倒を見ていた。
先生は俺だけが活動をしているなんて知らないから、飼育委員全員に「よく頑張ってるね」って褒めるんだ。
俺は大人に媚びるのが苦手なもんだから、サボってる奴らの方が先生に気に入られる。
そんな現実にずっと疑問を感じていた。感じていたままこの歳まで『真面目』に生きている。そうすればいつか報われんじゃないかと淡い期待をしているから。
「真面目は損するよな……」
意図せずポツリと呟いてしまう。
誰に聞かせたい訳でも無い。ただの独り言。
そうしたら隣の少女が、無表情のままこう言う。
「そうでしょうか」
「……?」
「真面目に頑張っている様子は、きっと誰かが見ていてくれます。不真面目な人が得するのは一時的なものです。最後に勝利するのは……そう、真面目な人です」
「勝利、ね……だけど、俺はその『勝利』ってものを、味わった事が無いよ」
「……貴方、お名前は?」
「飯塚だが」
少女はこちらをじっと見て、真剣そうな面持ちで俺にこう語りかける。
「飯塚さん。もしこのポスターを完成させて、例えば……ポスター賞に優勝したとします。そうしたら、少しはマシな気分になりませんか?」
「……羨ましい考えだが、無理だよ。だってまだ三分の一も終わっていないんだから」
「だったら今から頑張れば良いんです。閉門までまだ2時間半あります」
何か言い返そうと思ったが、その気も失せた。だって、少女の顔つきはあまりにも美麗で、あまりにも強く見えたのだから。
まるで「真面目な事で損なんか一度もした事なんて無い」とでも言わんばかりの顔だった。
「……分かったよ、俺の本気見せてやるよ」
「その意気ですよ」
もしかしてまた損をするかもしれない。
真面目な事で良い事なんてほんの少ししか無いかもしれない。
だけれども、クソ……そんな綺麗な顔で迫られたら、もう完成しないと気が済まないじゃないか。
その後は一心不乱に筆を進めた。
多少質は落ちても良い。
せめて完成させたい。そうして、マトモに審査を受けられるような作品に仕上げたい。
両手に筆を持って、二刀流で書き進めたり、全て塗りつぶさないで、敢えて雑に色を付けて、躍動感を出すようにもした。
――そうして、閉門まで5分前になった時。
「出来た……」
ポスターが完成した。
正直これが上手い出来栄えなのかも分からない。だけど、一応手間はかけてあるのは伝わるはずだ。
「はぁ……」
「お、おい……大丈夫か?」
「少し貧血で……でも大丈夫です。それより、早く片付けて帰りましょう」
少女は立ちくらみで倒れそうな様子だった。きっと、身体は強い方では無いのだろう。頭をダランと下に垂らし、背中を丸めて大変疲労した様子だ。
「あ……」
ふと、制服の胸元に谷間が出来ている事に気付く。……身体は小さいくせに、意外と大きいんだな。って、俺は何考えてるんだ……。
さっさと後片付けをして、玄関に出ると、外はすっかり暗くなっていた。
鳥なのか虫なのか分からない音が絶え間なく鳴り響き、風で草木が揺れている。
すると後ろからあの少女がやってきた。
「外、暗いですね」
「あー、そうだな」
適当に返事をして、改めて少女を見る。
身長は大体150センチ弱って所だろう。
相変わらず前髪のせいで瞳が隠れており、どこか根暗な印象を俺に与える。
なのに性格は接する限り前向きで、それは俺が羨ましく思えるほどだ。
「帰るか」
「はい」
何となく一緒に帰路を共にする。
どちらも自転車通学のようで、駐輪場から自転車を押して歩きながら校門を出る。
暗い夜道は、やはりどこか怖くて、隣に人がいて良かったなと思ってしまう。
そんな中、ふと俺は少女に問うてみる。
「あんた、名前は」
「私のですか」
「あんた以外誰がいるんだよ」
「まあ、そうですね……ふふ」
「何がおかしいんだよー」
少女はこのやり取りが堪らなく愉快なようで、クスクスと鈴の音のような声で笑う。
可愛いのが腹立つ……俺、一目惚れとかしない人なんだがなぁ。
「
「随分と豪華な名前だな」
「でも、私……自分の名前好きですよ」
「ふぅん、まあでも……確かに、いい名前だ」
ポショリと呟くと、白華はクスクスと笑う。大した面白い事は言っていないつもりなんだが、うん……まあ悪くは無いな。
自転車を押しながら歩き進めると、分かれ道に着いた。
「私、こっち側なので」
「そっか……」
別れ際、俺はつい白華にこう言う。
「ポスター……優勝出来たら、いいな……」
完成しただけでも満足だと、思っていた。
なのに作業を進める度に、それだけでは満足出来なくなっていたんだ。
どうにかして優勝したい。
だって、努力したんだから、俺達は頑張ったんだから、報われたいって思うのは当然じゃないか。
すると白華はニコッと名前の通り一輪の白い花のような綺麗な笑みを俺だけに浮かべ、
「ええ、そうですね……」
と言った。
何かもうその顔を見ただけでむず痒い気分になるのだった。
※※※
――で、結果。
「ポスター賞を獲得したのは、青軍です!」
俺達のポスターが見事優勝した。
なんでも、ウロコの一つ一つが荒っぽい色使いで、それが迫力満点で良かったんだと。
良かった。これで報われたんだ。
「では青軍の代表は表彰台に立ってください」
だが、司会に誘導されて表彰台に立たされたのは、昨日真っ先に帰った男だった。
そういやあの人、三年生の代表だったな。
「おめでとうございます!」
「おめでとーー」
「頑張ったな!」
代表に拍手喝采が送られる。
そうすると彼は居心地悪そうに足をくねらせ、身体を曲げ、髪をいじるのだ。
……ああ、そうか。
やっぱり真面目で良い事なんて無いんだ。
最後に良い思いをするのは不真面目な奴。
そうだ。最初から分かっていたのに、分かっていたのになぁ。
運動会が終わり、教室に人がいなくなっても、俺は身体が思うように動かず突っ伏していた。
現実を突きつけられたような、最悪な気分だ。吐きそうだとも言える。
もう真面目に生きるのは止めようか。
いっその事好き勝手に生きて、自分が楽になる方法を選んだ方が良いのかもしれない。
身体に泥が詰まったような、重ったるい気持ちのまま過ごしていると、
「飯塚君、君が、飯塚?」
「……? はい」
教師だった。
見た目は二十代後半くらいの、若々しい女教師。その人が俺にこう言う。
「ポスター、完成してくれたんだってね」
「え、何でそれを……」
「あなた達閉門ギリギリまでずっと教室にこもって頑張ってたでしょ。用務員さんが見てて、教えてくれたの。『二人だけでずっと頑張ってる』ってね」
ふと、
『真面目に頑張っている様子は、きっと誰かが見ていてくれます。不真面目な人が得するのは一時的なものです。最後に勝利するのは……そう、真面目な人です』
「ああ……」
勝利なんかじゃない。
そんな美しいものではない。
多くの生徒はポスター係の全員が力を合わせて優勝したと思っているだろう。
だからこれは勝利ではない。
だけれども、敗北とも言えないだろう。
きっと、この一回が『勝利』じゃないんだ。真面目を繰り返して、繰り返して繰り返して……死ぬ間際に「ああ、良い人生だった」って思える事が、きっと『勝利』なんだろう。
「飯塚君?」
「あ、いえ……すみません」
「? まあとにかくね、昨日は遅くまでありがとうね。少なくとも、私はあなた達の事、ヒーローだと思っていますよ」
「ヒーロー……」
先生のその言葉に、少し恥ずかしくなった。正直ヒーローというよりは、バイプレイヤーと言った方が良さそうだ。
その後。
ようやく俺は動き出し、今は玄関前。
辺りに生徒の姿はあまりない。
ただ木々が揺れ、太陽がカプカプと笑っているだけだ。
だが不思議と心は落ち着いていた。
少し自分に自信を持てた気がする。少しだけ、ほんの少しだけ。
「飯塚さん」
「白華か」
後ろからやってきたのは
「帰りましょうか」
「ああ、そうだな」
そうして俺達はまた、駐輪場から自転車を押して歩きながら校門を出る。
道中、俺は白華にこう訊く。
「俺達は、勝利出来るんだろうか」
「飯塚さんはどう思うんですか?」
「……分からん。分からんが……」
フッと息を吐き、俺はやや明るめに呟く。
「今は悪い気分じゃ……ないな」
「そうですか……」
真面目に生きて、良い事なんて無いと思っていた。ただ身体が勝手に不真面目な事を受け付けないから、真面目に徹しているだけだと。
だけれども、今日思った。
真面目も悪くない。身体を壊さない程度の真面目、最高じゃないか。
「……飯塚さん?」
「……」
それに、好きな人も出来た。
目の前の少女は俺を見て不思議そうに見つめ返してくる。
「白華」
俺は立ち止まり、手を差し伸べる。
握手の姿勢だ。今日まで生きてきた、同じ『真面目君』に親近感を覚えたのだ。
白華は俺の手を取ってくれる。
手と手が握られ、俺達は熱い握手を交わした。
「ふふ……」
「ごめん……キモかった?」
「少し」
「う、ぁ……そうだよな」
女子にキモがられてしまい、いささかのショックを隠しきれない俺。
だが白華は頬を赤く染め、こう言う。
「嘘ですよ。別にキモくないです」
「本当かよそれ……」
「はい。本当です」
そう言う白華の表情は柔らかく、どこか温かみを感じるのだった。
そうして俺らは出会い、何となく付き合い始める。白華に出逢って、本当に初めての事だらけだった。
だけどその初めてが何となく新鮮で、堪らなく愉快だった。
※※※
ある日。
「
「おー、そうだな」
学校を出て、今は12月の中頃。
辺りはすっかり白く染まり、来年の足音がすぐそこでタッタッタと鳴っていた。
「なあ、
「はい」
「柚葉は……真面目でも、頑張っても……損をするだろうとか、考えないのか……?」
イキナリの質問に、多少驚いた様子だったが、降り注ぐ雪を目で追いながら、柚葉はこう答える。
「ありますよ。もちろん」
「やっぱりか」
「でも、きっと損得じゃないんです。真面目な事で、例え損をしたとしても、私はそれで良いんです」
「何でだよ」
「だって……最後の最後にきっと、楽しい事が待っているから」
……本当に、その女の前向きさには笑ってしまう。現代社会では長く生きられない考えだ。
「柚葉」
だから、俺が守ってあげなければならない。俺がこの少女から害悪なるものを、全て……。
「綾人さん」
柚葉の肩に手を当てる。
目で次に何をするか合図をすると、何と『OK』の意思が込められた眼差しで見つめられる。だから俺は彼女に顔を寄せ、
「……ん」
キスをした。
グミを柔らかくしたような、不思議な感触。だが悪い感じじゃない。
柚葉が小さく声を漏らす。
理性が吹き飛ぶ前に、身体を離す。
つつっと白い糸が二人を結び、ぷつんと離れた。
「柚葉……幸せになろうな」
「……はい、よろしくお願いします」
ぺこりを頭を下げる柚葉。
そうして俺達は、いつ見返りがあるか分からないこの世界で、真面目に生きるのだった。最後に笑える日が、きっと来ると信じて……。
そして二人はキスをした まちだ きい(旧神邪エリス) @omura_eas
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