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彼には自信があった。必ず逃げ切ることが出来ると。高校時代、誰しもから期待される存だった。クラスでも彼のことを慕う人間に囲まれていたのはごくしぜんであった。成績優秀、文武両道。競争相手は皆、少しの時間があれば必ず彼に膝をついたものだった。

それがどうしただろうか、いつからか振るわない人生を送り出して人から笑われるようになったのは。許さない。高校時代はテニス部のエース、成績は大抵学年で5位以内。

それがなんの間違いか、いつしか無職となった。理由はいまいちわからない。我慢が足りないのか、なんなのか。彼には到底理解できなかった。皆が仕事に就き始め何年か経つと皆、彼のことを笑いものにし始めた。それは彼にとって許されざる屈辱だった。


初めてはいつだったのかも忘れてしまった。

たかだか、高慢な人間、数人を刺し殺した程度だ。何が悪い。世の中にはもっと、沢山、山のように悪があるではないか。隣に住んでる奴だってそうだ。朝方、やたらニヤニヤとした笑みを浮かべながら挨拶してきやがる。きっと俺を見下しているに違いない。その不確かな確信が彼の体にとぐろを巻いていた。どいつもこいつも、と彼はよく言っていた。何もかもが敵なのだ。生きていく上で邪魔な存在。腹の立つ相手でしかない。常に底の見えない壺の中を除くような気持ちでしか人と接することの出来ない彼にとっては、他人との謁見、挨拶など苦痛でしかなかった。がしかし、世の中の倫理観を持ち合わせていなかった訳ではなかったので多少の我慢はできていたのだ。はじめの方はその者を傷つけず愛想を振り撒いてその場の怒りを抑えて後になにかにぶつければそれはそれで済んでいた。しかしその方法もしばらく経つと意味をなさなくなったが。

七つの大罪のうち、憤怒と嫉妬、怠惰を兼ね備え、突き詰めたのが彼だった。


最初に殺しを犯した理由としてはごくシンプルなものだった気がする。もう記憶ももう虚ろだった。たしか今までの人生を馬鹿にされたような、いやそれは2人目かいや1人目な気もする。確かそんな気がする。その程度の記憶しかないが自らのキャパシティを超えた怒りだった。一度越えた一線から戻ることはせず、その後の怒りには従順にしたがった。確か4、5人殺した程度だった。犯行は完璧に隠蔽した。誰に見られることも無く、その手腕は最早賞賛に値するような『綺麗』なものなのではないかと時々自賛に耽けることもあるほどだ。死んでも跡がつかないように殺したのは高慢で世の中から孤立してるような、1人でネチネチとネットで商売を行うケチなビジネスマン共だった。こっちは金を払って講習を受けさせてくれ。と家まで呼んだというのに金を受け取った後は揃いも揃って捨て台詞を吐きやがった。君には才能がないだとか、まずは家を片付けたらどうだとか。まあ大丈夫だ。なにしろ完璧だからね、誰にも捕まらないし誰にも何もわからないさ。俺には才能があるのさ。そういえば今もその最中か、集中しろ少しでも無駄な証拠を残そうものなら俺の完璧なキャリアに傷がつく。職にはつけてないが大丈夫だ。いつか世間が俺に追いつくよ。俺に馬乗りになられている今や男とも女ともわからない肉の塊が何かを叫んでいるが大丈夫。あ、女だったかな。ここは完全防音、臭いも何も漏れないしセキュリティだって俺が作った。誰にも破れないし大丈夫大丈夫、もし見つかっても逃走するための人員だって用意はしてある。こう見えてもいやどう見えているのかは分からないが、人心掌握にも自信がある。世の中には俺と同類は必ず一定数存在するのさ。と考えているともうそろそろ肉の塊は声を出すのを止めようとしていた。いつもより壊れるのが早いじゃないかいや壊れているのは俺でしょうかだけど壊れているかどうかの境界線って誰が決めるんだ決めれるのはお腹がすいたけれど何を食べようと昨日はカレーだったな今日はもっとあっさりしたものがいいと思われるそういえば昔お母さんがつくるカレーが好きでした親父の運転する車の後部座席で寝るのもなかなか好きだったしあれはよかったなア御社御社で食べる肉じゃがもすきだったけどキャリアには自信があるなあ逃げれるだろうなあ多分俺みたいな人間は必要なのでありまして大丈夫でしょうねそうです簡単でしたトロトロのカレーが俺を待ってるだけどなんかどうでもいいかもしれない。楽しくない。


急に雑音が響いた。それはありえない事だった。雑な音など発生する理由がないし、ここにはこの俺とこの肉の塊だけ。1人と1つ以外には音を出す者がいないからだ。


彼が自家製の防災シェルターの扉を見やると彼を照らす車が1台、男が2人、逆光で顔は見えないが、息を切らし、肩を震わせ立っていた。

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