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上司の対応は非常に穏やかなものだった。虚ろな人間性を指摘されることはあっても、勤務態度は極めて真面目で遅刻などとは無縁であった男の初の遅刻に正直面食らっただろう。
諭されるようにしていつものようにデスクにつく男だったが、上司の優しい対応も、一日に全てこなせるかどうかわからないタスクの量にも、とりあえずいつも2.3本吸う煙草も忘れて、ただ冷や汗を流していた。
トラウマを抉られたようなものではなかった。それほど優しい表現でおさまるものではなかった。パンドラの匣を開けたという言い回しでも足りない。男の静かな日常はこんなにも簡単に、さらに、自発的なものでなく、他発的なきっかけでそれが為されてしまったことに対して腹を立てていたが、それ以上の感情が奥底から煮えたぎっていた。
自分の日常がこんなに些細な、関係の無い出来事が原因で大きく覆ってしまったのだ。男は辟易など、まさしくする暇がなかった。
奴の邪悪は昔からそうであった。その片鱗は明らかに見せていた。大きな権力のようなものを振りかざして人を傷つけるのは彼の十八番だったし、被害を受けたのは自分だけではなかったのを男は知っていた。被害は千差万別、身体的な被害を受けた者もいたし、金銭的な被害もあがっていたようだ。被害を受けた人間がどうなったかは男は知らずじまいだった。当時男はそれどころではなかった。
同時に、男は彼への慈しみの気持ちも膨らませていた。ああ、今あなたは、僕と同じなんだね。可哀想だね。何があったかは知らないけれど、孤独なのだね。と男はデスクの上に手配書の彼の写真を見ながら小言をぶつぶつと呟いていた。
『大丈夫かい』
先程男を対応した上司とは違う上司が男のいつもとは明らかに違う態度に驚きを隠せず声をかけた。
男はその問いへの返答として全く違う発言を無意識にしていた。
『退職届はどこに出しましょうか、野間田部長』
何故か目が輝いてしまったのを男は自覚した。
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