すばらしきこのせかい Part3

 今日も私はスプレー缶を数本鞄に詰め、人々が眠りについている夜の世界で新たな作品を創造する。この素晴らしいほど残酷な世界に唾を吐くために。


 バンクシー。かつて存在した、誰も素性を知らないグラフィティアートのカリスマ。何も知らない人から見ればただの落書きでしかないアートで政治や社会を風刺し世界に向かって中指を立て続ける芸術的なテロリスト。そう呼ぶ人もいる。

 言うなれば私はこの時代のバンクシーだ。【人類削減法】なんていう法律がまかり通っているこの狂った時代。芸術家として、この世界の残酷さを絵で訴えずにはいられない。

 私が“夜の芸術家”として活動を始めたのは数年前から。散発的にこうして夜の街に繰り出しては思い思いの作品を街の壁や地面に描いてきた。今まで私が描いた絵が何度か地方新聞やネットニュースに取り上げられたこともあり、一部の界隈では“夜の芸術家”は密かに有名だ。世間的に見れば紛うことなき犯罪。バレれば死刑、とまではいかないだろうが社会的な処罰を受けて余命が削られることは確実。それでも私が夜の創作を続けているのは、私がこの世界がおかしいと思っているのと、“彼女”の影響だろう。


 ―——今日はここにしようかな。


 私が今夜の“キャンバス”に定めたのは、この街のとある中学校の校門付近の壁。私は学校や学習塾といった教育機関の施設にグラフィティを描くことが多かった。この世界が狂っているすべての原因は現代の教育にこそある。学業成績だけで人の命を秤にかけるというのはいったいどこの馬鹿が決めたんだ?そもそも人の命を選別する基準として学業にフォーカスする意味が分からない。人の価値はどれだけ勉強できるかで決まるのか?違うだろう。


 ―——そうね、今夜の絵は決まった。


 私が肩にかけた鞄の中からスプレー缶に手を伸ばしたまさにその時、暗闇から私の名を呼ぶ声が聞こえた。


「——先生?」

「ッ!?あら、貴方は……」


 そこにいたのは、私の“元教え子”の少女だった。忘れたくても忘れられない、良くも悪くも印象に残る生徒だった子。【人類削減法】が施行されている、学業に勤しまなければ生きていけないこの時代において、自分は生きたくないと主張するかのように堕落しきっていた女子生徒。美術の教師だった私は直接担任だったわけではないが、職員室にいれば嫌でも噂は耳に届いた。確かギリギリ卒業はしていたはずだけど、成績不振で進学と就職は認められなかったと聞いている。


「お久しぶりです。」

「えぇ、元気にしてた?」


 よく言えば若者らしい、悪く言えば軽薄な雰囲気は変わっていないが、実際話をしてみると存外礼儀は弁えている。そういうところは以前と変わっていないようだ。


「何してるんですか、こんな時間に?」

「ちょっと夜風に当たりにね。あなたは?」

「私はちょっと、家に居たくないだけです」

「……こういうの、聞いていいか分からないんだけど、今は何してるの?」

「お察しの通りとだけ言っておきます」


 なんてことはないように肩をすくめる彼女。どうやら相変わらず怠惰に過ごしているようだ。それはつまり、もうすぐ定められた余命が尽きるということ。なのに目の前にいる彼女は以前高校で教えていた頃と何も変わっていない。自分が死へと近づいているというのに、死をこれっぽっちも恐れていないとでもいうかのように泰然自若としてマイペース。学生時代、周囲の生徒が余命を引き延ばすために必死になって努力する中、彼女だけはそんな連中をどこか見下しすらしていたようにも思う。

 そんな彼女が、私は嫌いではなかった。教師という立場上、表立ってそんなことを口にできるはずもなかったけれど。

 この子も私と同じ。この素晴らしく残酷で狂った世界に中指を立てている側の人種。私はこうして夜な夜なグラフィティで世界に不条理を訴える程度の抵抗しかできないのに、この子は文字通り自分の命を捨てて世界に歯向かっている。そんな彼女に、私はどこか羨望にも似た感情を抱いていた。


「そっか。ねぇ、もしよかったら少しお話しない?久しぶりに会えたんだし」

「……まぁ、いいですよ」


 私達は中学校からほど近いコンビニでホットの珈琲とレモンティーをそれぞれ買い、店の外のベンチに腰かけた。

 意外にも先に口を開いたのは彼女の方だった。


「先生、昔おっしゃってたこと、覚えてますか?」

「え?授業で話したことなんて星の数ほどあるからなぁ」

「……“芸術に正解なんてない。学業がすべてのこの世界で、芸術だけはあなたの味方だ”って」

「えぇ、そう言ったわね。覚えてるわよ」


 そう、それは教師である前に芸術家である私のポリシーだ。職業柄、生徒たちが創る作品にはどうしても評価をつけなければならないが、人が創る芸術作品に正解やゴールなんてない。正しさも間違いもなく、あるのはただ作り手の心だけだ。その心の表現の技法で優劣をつけることはあれど、人が創った絵画、陶芸、彫刻、それらすべてには価値があり、すべてに作り手の想いがある。

 彼女は湯気が立ち昇る缶コーヒーを一口飲んで続けた。


「絵、描きたいなって思ってて」

「いいじゃない。どんな絵を描きたいの?」

「まだ決めてないんですけど、最近できた友達が絵を描いてみたいって言うので」

「ふーん、そうなんだ」

「……先生、私が絵下手なの知ってますよね?」

「あら、そうだったっけ?」

「下手でも、いいのかなって」


 彼女はわずかに頬を赤らめながら呟いた。もしかしたらその友達というのは男の子なのかもしれない。下手な絵を見られるのが恥ずかしいのだろうか。学生時代常にローテンションで隙があるようで無かった頃を知る身としては少し意外だった。


「先生はあの絵、嫌いじゃなかったけどな」

「あの絵って、あの絵ですか?あの時の先生やたらあの絵のこと褒めてくれましたよねそういえば。ただの落書きなのに」

「先生はね、絵の上手い下手よりもその人がどういう心をその作品に込めたかを見てるのよ。あの絵、先生のスマホにまだ写真残ってるけど、見る?」

「いいですよそんなの」


 煙たがる彼女の声を無視して私はその写真を開いて見せた。

 スマホの画面に映し出されていたのは、当時彼女が通っていた高校の廊下の壁に絵の具で描かれた落書き。青をベースにした円に緑や白、様々な色が乱雑に塗りたくられ、その上からひと際太い筆で円に大きく黒いバツ印がついている。その隅には一文字ずつ異なる色で「This world is wonderful!」と描かれ、水っぽい絵の具が床に向かって滴り落ちているのは狙っているのかと思うくらい不気味だ。

 最初にこの絵を発見したのは私だった。さらに言えば、絵を描いているこの子を見つけたのも私。この子が描いたあの絵が、私が“夜の芸術家”として活動し始めるきっかけだった。


 ▼▼▼


 とっくに下校時間を過ぎていた校舎で淡々と廊下の壁に絵の具をつけた筆を走らせる彼女を見つけた時、私は教師という立場上、本来なら彼女を咎めるべきだったのかもしれない。しかし私は教師である前に芸術家という気質ゆえに、彼女が描くその作品に興味を持った。普段授業で与えられた課題ではない、純粋に彼女自身が描き出す“心”がどういうものかを見届けたかった。

 彼女が描き終わったのであろうタイミングを見計らって私は声をかけた。


「——さん、これは何?」

「ッ、絵ですけど」


 彼女は背後から急に私に声をかけられて一瞬驚く素振りを見せたが、すぐに諦めたのか開き直ったように態度を悪くした。


「絵は分かるわよ。何の絵なの?」

「……見た通りです」

「えっと……この青っぽい円は地球?かな?」

「……そうですけど」

「地球の上から大きなバツ印。そして隣のこの英文……」


 “This world is wonderful!”。日本語に訳すと、“この世界は素晴らしい”、となる。

 この絵は、きっと彼女の心の叫びだ。

 この世界に対する皮肉であり、悲鳴であり、怒りであり、嘆きだ。

 若い頃から数えきれないほどの著名な芸術作品を観てきたが、これほど心を打つ作品を観たのはいつ以来だろう。正直なところ、私は目の前にいるこの少女に敗北感を覚えていた。他の人にとってはどうか分からないが、少なくとも私にはこの絵ほど誰かの心に響く作品を創れたことはない。


「——さん」

「……なんですか?」

「良い絵ね。先生は好きだなぁ、これ」


 そう言った時、いつも暗い目をしている彼女の瞳が少しだけ輝いたように見えた。


 ▲▲▲


「絵は好きだって言ったくせに、私が生活指導に絞られてた時は何もフォローしてくれませんでしたよね」

「だって私も先生だもん。ダメなことはダメって言わないといけないし」

「この絵の何がそんなに良かったんですか?」

「あなたらしさが出てたところ」


 昔話がひとしきり終わる頃には、私と彼女が手に持っていた飲み物も底をついていた。


「ねぇ、——さん」

「なんですか?」

「この世界は、おかしいと思う?」

「……おかしくはないと思います。むしろ合理的です。素晴らしいほどに」

「そう」

「……でも、だからこそ、残酷で、面倒で、理不尽だと思います」


 そう言って俯いた彼女は、どこか悔しそうにも見える。


 ―——自ら命を投げ打つような生き方をしていた貴方が今更これまでの浅慮を悔やんでいるの?

 ―——そうでないのなら、自分ではない他の誰かのことかな。


 彼女とコンビニの前で別れた後、私はもう一度中学校の校庭の前に訪れた。描こうと思っていた絵の内容は概ね変わっていない。ただし、一か所だけ修正しよう。

 私はコンクリートの壁に黒いスプレーで秤を描き、秤の片方の皿には何冊にも積み上げられた書物を、もう片方の皿には青いスプレーで地球を描いた。書物が乗せられている側の皿が重さで傾いている。地球の上から大きく黒のスプレーでバツ印を描いて、完成。


 ———“この世界は素晴らしい”、か。

 ———確かに素晴らしいかもしれないわね。私みたいな芸術家から見れば。こうして創作意欲を掻き立てられているわけだし。

 ———でも、やっぱり好きにはなれないな。


 後日、私がここに描いた絵がこれまでにないほど世間の関心を集めることになるのは、もう少し先の話。

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