27 『身勝手なこの世界』

 まず目に飛び込んできたのは、本来の色である白が薄汚れているベッド。それが目の前にあることから、自分が床に寝ているという結論に至る。

 両親が殺されたあの日から、寂しさを紛らわすための抱き枕なしに寝付けない。どうやら気絶が解けたあと、なにか代用品がないかと探したらしい。その結果、ベッドから落ちた。


「〜〜ッッ――」


 遠くから悲鳴が聞こえ、回線が切れたように止む。

 外で人が死んだ。


「──っ」


 激痛が走る身体に鞭を打ち、無理やり起き上がらせる。周囲を見渡すと、包帯などの医療用具が置いてあった。ここが医院だと推測するのは容易。

 自分だけしかいない、小規模な医院だ。


「――――」


 起きるだけでも意識が飛びそうな痛み。腕や腹に巻かれた包帯には血が滲む。

 医院には治癒系統の称号を持つ者がいる。というか治癒系統しか医者になれない。

 だが、これは地球での処置以下の対応だ。おそらく並大抵では治せない重症を負った。


 担当者が見当たらないため、この傷を治せる高位の治癒系統が使える人間を呼びに行ったと考えられる。

 包帯の下を見れば、直視するのも憚れるグロテスクな腕や腹――肉が丸出しになっている。これが中学生の頃なら、確実にリバースしていた。


 派手に肉の抉れたこの体の持ち主が自分なのかと、いまいち実感が湧かない。

 でも、泣き叫び、助けを乞う悲鳴を無視できない凪は、自分の胸に左手を当てる。


「私に勇気を。私に力を。──アオイ


 自分の心の中に生きる大切な人に語りかけ、力を借りた凪は頬を伝う涙を拭く。

 満身創痍の肉体を精神力だけで突き動かし、開いたドアを――飛び出してきた魔獣が喰らった。

 その魔獣と、視界に映った今にも人を襲わんとする魔獣を同時に凍結させる。


 酷使した脳は回復し切らない。耳元で爆音が常に鳴っているような頭痛を堪える。

 平衡感覚すら怪しい中、血を垂れ流しながら凪は壁伝いに進む。


「──凪ッ!!」


 聞き飽きてすらいる声と、凪の背後を穿った光の斬撃。それに反応して振り向くと、胴体と首が分かれた猛犬が倒れていた。


「なにやってんだ! 早く戻ってろ!」


 怒っている顔はあまり見た覚えがない。

 幼馴染である海はすごい剣幕で凪を心配しつつ、魔獣共を光の斬撃で斬り裂く。


「海ね……私を助けたのは」


「委員長からの通信を聴いてな。魔獣の突進を受けて倒れた凪が魔獣たちに食われてるって」


「桜子が……」


 みんなと合流してから来てと言ったはずだが、桜子も凪が心配だったらしい。


「そのせいで……また私は助かってしまった、というわけね」


「『しまった』じゃないだろ。『助かった』でいいだろ! あいつだって凪の死を望んじゃいない。そんなことわかってるだろ!」


「わかってる。でも……生きている限り私は救われない。生きている限りみんな死んでいく。私がいない世界が正しい」


「凪がいない方が正しい世界なんかない」


「そんな言葉だけで私は説得されない」


「知ってるよ。お前を救えるのはこの世にたった一人しかいないって」


「いいえ……もう一人もいないわ」


 この世界で救われることはもう不可能。

 地球とか、異世界とか、それを全部ひっくるめた世界──現世では救われない。

 この体と記憶を抹消して全く別の人間として生まれ変わるか、地獄で与えられるべき罰が下るか、死者の世界なんかなくて消えてなくなるか。

 死ねばいずれかは叶う。


「凪の想いを無駄にしたくなかったけれど、やっぱり、もう、この世界で生きるのは辛すぎる。もう、楽になりたい……だから死ぬ前に、せめてもの償いとして、最後の人助けをしようと思ったのよ」


「そんなの」


「自分で命を絶つことは許されなくとも、人助けをして魔獣に殺されるのなら、きっと葵も許してくれるわ」


 それだけ言い捨て、凪は死への歩みを再開させた。


「――――」


 なにか言いたげな様子だが、海は自分の言葉が無意味だと悟って息を詰まらせる。

 海も称号の力をかなり使っているようで、凪を追いかけずに頭を押さえていた。

 しかし、物心ついた頃から知る幼馴染に、別れの挨拶もなしは味気ない。

 最後に凪は振り返り、


「世界って……身勝手ね」


 今にも泣きそうな海に言った。その見飽きた顔も、最後と思えば懐旧の情が湧く。

 もう見ることのない顔を拝み、互いの人生をよく知る親友であり、幼馴染との決別を済ませた。


 脳が限界に来るまで、この身体が止まるまで、自分自身が壊れるまで、目を塞いで朦朧とした意識の中で<絶対零度>の空間を作る。


 足が地面についていない。壁に触れられない。倒れた気がする。でも痛みを感じない。

 目が開けられない。まぶたの向こうから光が届かない。なにも見えない。

 悲鳴が止んだ。魔獣の咆哮が止まった。燃え盛る炎が消えた。なにも聞こえない。

 血の匂いも、死肉の匂いも、風の匂いも、焦げた匂いも、鉄の味もしない。


 ──もう、なにも考えられない。


 南極も凍る冷気が空気に流され、飢えた猛獣共が瀕死の餌を見つけて飛びかかる。

 そのときだった。


「キェェ――!!」


 野蛮な唸り声の魔獣と違う高温の鳴き声。刹那、魔獣の断末魔が王都に響き渡った。


 五感を失った凪にはわかった。五感がないからこそ確信を持てた。

 脳細胞が闇企業顔負けの働きを見せ、五感を取り戻した凪は薄目を開く。

 突然、舞い込んできた光に仰天し、白黒していた視界が本来の色を映し出す。


 凪の周囲には数十体の魔獣。そのどれもが屍であり、綺麗に並べられた魔獣たちは一周回ってアート作品に見えなくもない。

 このリアルアートの生みの親は、真っ赤な空間で異様な漆黒の姿をしていた。


 最近、ちまたで噂の正体不明の正義の味方。目の前にいる人物はまさに、噂に聞く姿にそっくりだ。


 騎士の仮面で素顔を隠し、漆黒のマントを羽織った謎のヒーロー。闇夜に紛れて陰に潜む悪党を打ち倒す月下の影。その名は、影の聖騎士――シャドウパラディン!


 ――と、矛盾を抱えた無理のある設定だと思っていたが、実際に目の当たりにすると確かにその通りだと納得できる。


「──なんとか間に合ったか」


 この世界は身勝手だ。

 身勝手に選別された人間しか生きられず、その枠から外れた者は迫害される。

 ただそこにいるだけで嫌われたり、人格や存在の全てを否定されたり、大切なもの全てを失ったり。


 苦しくて、逃げたくて、なにもかも捨てて楽になりたいと思った。

 何度も、何度も、何度も、何度も、何度も投げ出そうとした。

 それでも、自分を助けたみんながいたから、凪は最後まで死を選べない。


 自分にできることを全部やり尽くし、その先に待つものは『解放』かと思っていた。

 だが、身勝手なこの世界は、時に身勝手なイタズラを起こす。


 なにも行動せず死を選んだんじゃない。最後まで、精一杯もがき苦しんだからこそ手にした気まぐれな希望イタズラ


「我が名はシャドウパラディン。お前は勇者だな? 助けてやろう」


 変な格好のヒーローになりきり、ダサい名前を自慢げに名乗る人物。怪しさ満点の男だとしても、その正体がわかっていれば愛おしい。仮面も、マントも、名前も、声も、全てが愛おしい。

 一番大切な人で、一番好きな人で、心から愛する人で、自分の全てだった人で──。


「ア、オイ……」


 大好きだった、大好きな少年の名を呟き、心の底から安楽した凪は、世界で一番心地の良い腕の中に意識を沈めた。

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