26 『消えない大罪』
──静けさを引き裂く怒号だった。
──絶望を吹き飛ばす希望だった。
こんな夜遅くに通行人はほとんどいないはずだが、ここに現れた彼はバッグを大男に投げつける。
バッグを払い除ける大男に死角が生まれ、その虚をついた彼が砂を飛ばす。
目に砂が入ったのか、うめき声を漏らした大男のまぶたが閉じる。
彼の足のつま先が股を蹴り上げ、大男は股間を押さえて激痛に悶え苦しむ。
「警察を呼んだ! 逃げるなら今だぞ!」
彼女を大男から離れた位置に移動させ、スマホを見せながら彼が言った。
だが、立ち上がった大男は高らかに笑う。
「警察? そんなの知ったことかッ! 俺の借金が何億だと思ってやがるッ! どっちみち俺の人生は終わりだ……なら最後に若い美少女犯し尽くして、警察に捕まるまで好き勝手ヤってから死んでやるよッ!!」
自暴自棄になっている大男の耳には彼の言葉が届かない。
「てめぇみてぇな高校生なんざ俺にかかれば何人でも殺せるんだよ! もうなにもかも知ったっちゃねぇ! もう油断しねぇぞッ!」
急所にクリーンヒットしたはずが、もう回復した大男が彼に仕掛ける。
さっきは奇襲に成功してなんとかなったが、丸腰の彼に成す術はない。逃げ出すが、公園の出口を目の前にして右へ曲がる。
真っ直ぐ行けば大男から逃げ切れたはずなのに、まだ彼は彼女を助けようとしていた。
大男の方が腕力も体力もあって足も速く、彼に勝算は皆無。それどころか、今にも追いつかれそうな勢い。
滑り台を利用し、細身の彼は大男を一度は振り切る。が、結局すぐ寸前まで迫り、ジャングルジムに飛び乗ろうとした彼の足を大男が掴んだ。
「はい。捕まえたァッ!!」
引きずり下ろす勢いのまま、大男は彼を地面に叩きつけた。
頭から流血し、彼の鼻血が公園の砂を真っ赤に染め上げる。
抵抗しなくなった彼から手を離し、背を向けた大男の足が動かない。
見れば足を手が掴んでおり、立ち止まった大男の後ろで彼が立ち上がる。
「……死にてぇのか?」
「例え死んでも……僕は彼女を助ける」
「てめぇが死んだところで助けられるもんなんてねぇんだよッ!」
殴り、蹴られ、傷だらけになっても、どれだけ血を流しても、彼は諦めず大男に立ち向かう。
意識が朦朧とした状態なのか、ふらふらとまともに立てなくなった彼へ大男の豪腕が振るわれ──
「──ッ!」
拳が彼に届く前に大男は宙を舞い、大きな背中を地面に叩きつけた。
果敢に挑む彼の姿に勇気をもらい、まだ恐怖が抜けきらない彼女も加勢したのだ。
打ちどころが悪かったらしく、大男は倒れたまま気を失う。
「あ、あなたは……」
よく見ると、彼の顔に見覚えがあった。
幼馴染とよく遊んでいる男子で、特段なにかが優れているわけでもない。地味めな私服で、目立った特徴のない顔と髪型。
彼女が声をかけても無反応。彼も気絶している。これだけ傷だらけなら無理もない。
無意識だったが、気付けば彼女は彼の頭を膝の上に乗せていた。
そんな行動をする自分に驚く。
触れられることも嫌なはずなのに、彼にだけは自分から触れたい。
彼女がこの世に生を受けてから初めて、もっと知りたいと思える人に出逢った。
「なんなの……この感じ……」
熱帯びた身体。速まる鼓動。自分の心臓の音を聞いたのは初めてだ。
かつてない身体の異常に戸惑いつつも、彼女の──凪の心は幸せに満たされていた。
彼の怪我は無事に治り、翌日に目が覚めたと知らせを受けた凪は見舞いにいく。
訊かれることは数えきれないほどあるのに、自分から切り出すのは難しい。
なんとか勇気を振り絞り、彼と連絡先を交換できた。
退院した彼と学校でも話すようになり、幼馴染の海を含めた三人でよく出掛けたりする仲になる。
でも、まだ怖い。
急に襲ってくるんじゃないかと思って試したりもしたが、そんな素振りはなかった。全くなかった。なに一つとしてなかった。
それどころか距離すら感じる。隣にいても心は離れていて、凪はそれが嫌だった。
他の女子と話してほしくない。彼のことばかり頭に浮かんで寝付けない。夢にまで彼が登場する。
話すだけで、近づくだけで、身体が熱くなって動悸が止まらない。まるで自分が自分じゃないみたいだ。
その症状を海に相談すると、異常の正体はあっさりと判明する。
それからは吹っ切れ、積極的に彼を遊びに誘ってみたが、六割超えの確率で海もついてきた。
海の言い訳曰く、彼に無理やり連れてこられたらしい。
二人きりで彼の家で遊んだこともある。
彼が作るパンケーキがおいしくて、というのは建前。本当はできるだけ長く一緒にいたいから、学校帰りに通うのが日課になった。
世界にはこんな幸せなことがあるのかと、凪の今までの人生が塗り替えられていく。
彼と出逢えたのがなによりの幸せ。これまでの絶望も、彼さえ一緒にいてくれれば希望に変わる。
──私も幸せになれる。
そうやって、勘違いをしていた。
呪いは消えていない。背負っていた十字架を、己に架せられた罪を忘れていた。
この世に生まれてきたことが、生きている限り消えない彼女の大罪なのだから。
高校二年生の修学旅行──
同じ班の彼と色々な場所を巡ろうと楽しみにしていた時、信号で止まったバスの中に銃を持った男が乱入する。
その男は、かつて凪の両親を殺した組織の生き残りだった。警察の捜査網から逃げおおせた者がいたのだ。
「俺らの組織をぶち壊してくれやがった奴は誰だッ! 出てこねぇならここにいる連中まとめてぶっ殺すぞッ!」
無論、狙いは凪だった。
どういう経路で情報を得たのか、凪がこのバスに乗っていると確信を持っている。
窓ガラスを銃弾が割った。それでクラスメイトたちも本物だと怯え震える。
自分の命を差し出したところで、あの男はバスに乗っている全員を殺す気だろう。だったら、名乗り出てみて隙があれば銃を奪って殺すしかない。
失敗すれば間違いなく死ぬが、やらなくともどちらにせよ皆殺しだ。
「──私です」
声を発して挙手した凪に男が近づき──凪の前の席に座っていた彼が男の手から銃を払った。
先に銃を拾った彼は──、
「がっ……」
男が隠していたナイフが胸に突き刺さり、吐血して銃を滑り落とす。が、最後の力で身体を動かし、彼は男の喉を掻っ切った。
「アオイ──ッ!!」
男は即死。両親と同じ血溜まりを作る彼に駆け寄り、泣き喚くことしかできない自分を呪う。
担任が救急車を呼ぶが、心臓を刺された彼はすぐに死ぬ。それでも諦めきれず、凪は奇跡を信じて願う。
「お願い……アオイ……死なないで……死なないでよぉ……私を、一人にしないで……アオイ──」
両親の死をきっかけに勉強した止血の甲斐なく、絶望の音と共に彼は骸と化す。
彼女の心を絶対零度が塞いだ。
何度も後を追おうと考えたが、彼に救われた命を捨てることなどできない。
再び凪は引き籠もり、海の母と姉からの差し入れを食べて寝るだけ。
一ヶ月が経ち、海から「凪を苦しませるために葵は死んだんじゃない」と言われ、完全に癒えていない状態で凪は学校に赴く。
海に続いて足を踏み入れた直後──光に包まれた教室が、凪たちに別れを告げた。
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