その挑戦状、愛せよ

虹音 ゆいが

舐めんなよてめぇ

「よぉ、生きてるかぁ? 底辺作家様」

「……底辺は余計だ、バカ」


 俺がしかめ面で返す中、梨奈は八重歯を覗かせた人懐っこい笑みと共に靴を脱ぐ。

 両手には近場のスーパーの印が刻まれた袋を持っている。夕食用の食材だけ買ってくるという話だったはずだが、明らかに三日くらいは籠城できそうな量だ。


「おいおい、それ全部食う気か?」

「違うっつの。どーせ冷蔵庫の中空っぽっしょ? 適当に日持ちしそうなヤツもついでに買っただけ」

「でも、俺料理できないし」

「だーかーらー、この優しい優しい梨奈様が定期的に料理作りに来てやってんでしょーが。んー? 感謝の言葉が聞こえないなー?」

「……まあ、助かってるよ」


 こういう時に素直に言葉に出来ない自分が恨めしい。原稿に向かってる時は息を吸うように出て来るってのに。


 出会ったのは大学の研究室。付き合ったのは卒業する直前。俺が作家としてどうにか食っていけるようになる前から、梨奈は俺の事を支え続けてくれた。

 バイトしながら新人賞に応募し続けては落ち続ける俺を、自分も働いているのに献身的に動いてくれる梨奈。語り口こそぶっきらぼうと言うか男勝りだけど、顔立ちと同じで彼女は誰よりも女性的で、理想的な女性像だと思う。


(……こんな事SNSで呟いたら、女は男に尽くす生き物だなんて前時代的だ、って叩かれるんだろうな)


 原稿を進める手を止め、俺は台所の方を見やる。うちに来てからの動きは慣れたモノで、梨奈はもう料理に取り掛かっていた。


 何だかんだで、俺は彼女の厚意に甘えている。気が付けばお互いに30。もう出会ってから10年経つのか、としみじみ思い返す。


『あんた、小説書いてんの?』


 出会った当時、俺は小説を書いている事を秘密にしていた。文学部ではあったけど、周りに作家を目指している人は一人もいなくて、何となく隠れて書き進めるのが癖になっていた。

 それを、見られた。どこか恥ずかしい思いと、小説に対する熱意を聞いてもらいたいという内なる願望。最終的に後者が勝り、俺は普段の振る舞いとかも忘れて一心不乱に自分の言葉を並べ立てていた。


『面白いねー。じゃあさ、あたしをあんたの小説に出してよ」


 そんな無茶ぶりを受け流しながら、俺達は友人になった。同性の友人の誰よりも親しい異性の友人。周りには付き合っている認定されていたけど、ちゃんとした形で付き合うようになったのはもっと後だ。


 卒業してからも、書き続けた。プロの作家になる為に、そして彼女の期待に応えたい一心で。

 結果、一年ほど前にギリギリで賞をもらった。それは、梨奈をモデルにした女性を主人公に据えた恋愛小説だった。


『あんたさ、あたしと小説、どっちが大事なの?』


 そんなテンプレな喧嘩をした事もある。その時は曖昧に返してたけど、俺はそれを後悔している。

 だって俺は……、


「ねぇ」


 突然声を掛けられ、俺は椅子の上でリアルにちょっと跳ねた。


「な、何だよ」

「あたし達ってさ、付き合ってんだよね?」


 唐突にそんな事を訊かれて、俺は戸惑ってしまう。

 けどその一方で、彼女が何を言いたいのか何となく想像がついている俺もいた。


「ああ、そうだな」

「じゃあさ、あたし達っていつ結婚すんの?」


 やっぱり。

 もう、30。付き合ってる間柄で結婚を意識するのは、むしろ当たり前だ。

 俺は口を噤む。それを見越していたかのように、彼女は台所から出て来て自分の鞄に手を突っ込む。


「それって……」

「分かってるんでしょ?」


 そう、分かってる。彼女が俺の前に提示したそれは、テレビとかドラマとかで何度となく見て来た一枚の紙きれ。

 婚姻届け。梨奈の方の項目だけが埋まっているそれを目の前にすると、ただの紙切れどころか触ったら火傷しそうなくらいに俺の事を威圧してきやがる。


「前、一度訊いたけどさ」


 梨奈は、淡々と言う。


「あんたさ、あたしと小説、どっちが大事なの?」

「…………」


 今、訊くのか。

 結婚云々にしたって、いつかは聞かれる事だとは思っていた。だから普段、夕食を食べた後の気の緩みを突いてくるに違いない、油断しないようにしないと、なんて思っていたのに。

 それすら、お見通しだったんだ。当然だ。彼女は、俺の事を誰よりも知ってるんだから。


「俺は…………」


 言葉に詰まる。ここで逃げる事なんて許されない。梨奈の為にも、俺の為にも。


「…………ごめん」


 絞り出すように、俺は言葉を紡ぐ。


「梨奈の事は好きだ。感謝もしてる。だけど、俺は小説を捨てられない」


 それは俺の本音。何度も言葉にしようとして、飲み込み続けて来た言葉。

 だから、押しかけ女房的な半同棲状態になった後も、俺は梨奈との正式な同棲をかたくなに避けて来た。ただただ、後ろめたくて、申し訳なかったから。


「俺の小説はそんなに売れてないけど、それでも楽しみにしてくれている人はいる。今書いてるシリーズものも、少しずつだけど軌道に乗って来たと思う」


 梨奈はまっすぐに俺を見ている。怒るでもなく、悲しむでもなく、まっすぐに。


「読者の為にも、それに、俺の小説のキャラクターの為にも、俺は小説を選ぶ」

「……キャラクターの為って?」

「何言ってるんだ、って思われるかもしれないけど、俺は自分の創り出したキャラクター達をすごく大切に思っている。だから、彼らに相応しい結末を用意したい」


 自分の創ったキャラクターは子供みたいなもの、みたいな話があるけど、今の俺にはその気持ちがよく分かる。

 なにも、ハッピーエンドじゃなくたっていい。そのキャラクターが最大限に持ち味を発揮し、読者の脳裏に焼き付くような。そんな生き様を、彼ら全員に歩ませてやりたいと、切に思う。

 そしてそれはきっと、自分の子供全員を独り立ちさせてやるような、もの凄いエネルギーが必要な事だ。生半可な気持ちで取り組むわけにはいかない。


「でも、そうなると俺は梨奈を幸せにする自信がない。好きなのに、それ以上の事はしてやれないと思うんだ。だから、ごめん」

「…………、そっか」


 梨奈は俺から視線を外し、立ち上がる。俺は彼女の顔を見れなかった。

 いいんだ。全部俺のせいだ。意気地がなくて、今まで先延ばしにしてきた俺が悪いんだ。何も言い訳をするつもりなんてない。


 最悪、包丁で刺されるかも。いや、そうなると梨奈が犯罪者になってしまうから全力で避けないと。そんな小説の中みたいな展開を思い浮かべる中、


「舐めんなよてめぇ」


 気が付けば、梨奈が俺の襟首をねじり上げていた。至近距離で梨奈と目が合う。


「幸せにする自信がない? ざっけんな。あたしはね、あんたと一緒にいるだけで幸せなんだよ!」


 梨奈は怒っていた。多分、出会ってから今までで一番に。


「あんたに押し付けられる幸せなんか、はなっから要らないっつの。男が女を幸せにする? はっ、前時代的ね。底辺作家様」


 ……ああ、そうか。俺は、梨奈のこういう所が好きになったんだっけ。知ってたつもりだけど、忘れてたみたいだ。


「あんたが自分の小説のキャラを大事に思ってる事なんざ、とっくに知ってる。あたしをモデルにしたキャラ、行動の一つ一つをあたしに確認取ってきたじゃん。ちゃんとしないとあたしとキャラ、両方に失礼だってさ」


 そう言えば、そうだったな。キャラクターにある種の敬意を払うようになったのはあの頃からだった。


 梨奈は一拍間を置き、改めて婚姻届けを俺の眼前に突き出して、笑う。


「さぁ、底辺ヘタレ作家様。これはあたしからの婚姻届け挑戦状だ。受け取るの? 破り捨てるの? はっきりして」

「……はっ、さりげにヘタレも追加しやがって」


 いいね。ここまで完膚なきまでに言葉でボコれらて、喧嘩吹っ掛けられて。

 買わないなんざ作家として……いや、男じゃねぇよなぁ?


「上等だ、幸せになれるってんならなってみやがれ。後悔すんなよ?」

「言ってな。あたしはあたしだけじゃなく、あんたも幸せにしてやるっつの」


 梨奈の事だから、本当にやり遂げるんだろう。……いや、もうやり遂げてる、か。

 

 今の俺は、こんなにも幸せだ。


「いいぜ、掛かって来いよ」


 俺はにやりと口角を上げつつ婚姻届け挑戦状に向かい、人生を掛けた執筆に取り掛かる。

 そんな俺の横で梨奈は、最高に可愛らしい笑顔を浮かべていた。

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