幕間
第317話 ある学者と少年
とある国の小さな港町。
小さいながらも活気に溢れ、統治者の腕がいいのか治安が良く、現地民に愛されている町。
漁が盛んで新鮮な魚貝類が豊富なその町には、とある海洋学者がいた。
その国の首都で若くして博士号を得た彼は、自分の生まれ育った町に貢献しようと、毎日豊かな恵みを与えてくれる、海の研究者となった。
そんな彼の一番の研究対象は「絶海の楽園都市」。
誰もが幼少より寝物語として聞かされていた海の果ての楽園。
大抵の海洋学者は、ただの夢物語の産物だと笑ったが、彼は違う。
楽園都市はあると信じ、今日まで研究を続けていた。
彼は難解な古い文献を漁り、時折海を眺める毎日を過ごしていた。
そんなある日のこと。
俄かに町が騒がしくなり、気になった彼は研究室を抜け、人の波に乗り港へと足を運んだ。
すると、驚愕の光景を目にする。
「な、何だあれは……っ!?」
遠い海の向こうで、天を貫かんと噴き上がる水柱。
雲一つない空には煌々と光を放つ太陽の姿がある。
荒れた天気による影響ではないことを瞬時に理解。そして、海の荒れ様に目を向ける。
今にも津波が町に押し寄せんばかりに荒れているが、それ以上に高く噴き上がった水柱から目が離せなかった。
「か、海神様のお怒りだ……」
誰かがそう呟いた。
その言葉が伝播し、海神を信仰している町の人々は膝をつき祈りを捧げ始めた。
そんな中、古代遺跡でたまたま見つけた文献のある一節を思い出した。
『カノ楽園、大役ヲ担イシ地。役終エシトキ、永劫ノ眠リヘト――』
その後に続く言葉はかすれて読めず。しかし、その文献に書かれていたことが事実だとするならば……。
「『天突ク水ノ柱、荒レタ海ヘト帰レリ。凪イダ海ニ全テヲ――』とも書かれていた。まさしくこの光景……! 素晴らしい! 楽園は本当にあったのだ!!」
これまでの研究は無駄ではなかった。楽園都市は、決して夢物語ではなかった。
その真実に、彼は歓喜する。
そして、天に昇る水柱はゆっくりと海へと還っていった。
水柱が消え荒れた海が凪いだ途端、人々は疑問を抱く。
「あれ……俺はなぜ祈りを捧げて……?」
「おかしいわね。何をしていたのかしら……?」
「こんなことしてる場合じゃねぇ! テメェら、船を出すぞ!」
まだ今日の漁をしていない漁師たちが、慌てて船に乗り出す。
町の人々は、頭を傾げながらも日常へと戻っていく。
まさしく人々の記憶から、「絶海の楽園都市」に関する記憶が全て消えた瞬間だった。
それは、研究者である彼も例外ではない。
「あれ……私は何を? この胸の高鳴りは一体……?」
彼の呟いた文言。消えたその先の言葉は非常に短く単純なものだった。
『天突ク水ノ柱、荒レタ海ヘト帰レリ。凪イダ海ニ全テヲ忘ルル』
◇◇◇
「ジャック先生。お兄さんたち大丈夫かな……?」
「絶海の楽園都市」の内側、蒼鉱の洞窟に住む少年――ユウが漂流者の医師ジャックへ心配そうに訊ねた。
ジャックは小さな丸眼鏡を拭きながら、答える。
「彼らは冒険者です。それも死界へと辿り着くほどの猛者だ。きっと大丈夫でしょう」
「でも……最近ずっと奇妙な揺れが続いているよ。皆、海龍様がお怒りだって不安になってるし……」
「海龍様は私たちの守り神です。その海龍様がお怒りになっている。それは私たちを守ろうとしてくださっているからです」
「そうかなぁ……」
不安が拭えないユウ少年。
消えない不安の正体が気になり、落ち着かない様子だ。
診療所の中をウロウロと歩き回っていると、突然大きな地揺れに襲われる。
「うわぁっ!?」
「ユウ君、こちらへ!」
ジャックがユウの手を掴み、テーブルの下へと隠した。
魔法で支えられている棚が倒れるほどの揺れ。未体験の事態に住民たちは混乱している。
「これは一体……?」
「せ、先生、僕たちどうなっちゃうの!?」
「わかりません。今はこの揺れが収まるのを待つしか……――」
ジャックの頭に、不思議な記憶が浮かび上がる。
その記憶を見た途端、ジャックは得心いったように大きく頷く。
「せ、先生……?」
「なぜこんな大事なことを忘れていたのでしょうか。私たちは案内人。その使命は、有資格者を導くこと。彼が……レン君がその人だったとは。であれば、私たちは見事使命を果たしました。この地も役目を終え、永劫の眠りにつくことでしょう」
「先生? どういうこと? 僕たちはどうなっちゃうの?」
「ユウ君、我々は漂流者ではなかったのです。有資格者を導く案内人。その資格者はあのレン君でした。そして彼は、見事試練を超えたのです。役目を終えたこの地は人々の記憶から消えてしまいますが……」
「……よくわからないけど、皆一緒なの……?」
「ええ。私たちはこれからもずっと一緒ですとも。海龍様が我々を見守っていてくださいます」
「そっか、それなら……」
ユウ少年は、笑う。
年相応に無邪気で、嬉しそうで……どこか悲しそうな笑顔。
「みんなとずっと一緒なら、寂しくないね!」
ユウ少年のその笑顔を最後に、楽園都市の物語は幕を閉じた――。
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