第293話 思い出したくなかった記憶
代わり映えしない道を進んでいると、煉はひと際眩い光を放つ道に差し掛かった。
光につられるがまま、さらに先を目指す。煉の頭に響く少女の声も、その光の先を指し示しているみたいだ。
煉の想像通りであれば、この先にあるのは例のメモリークリスタルだろう。
死界の攻略と共に煉の記憶を取り戻す探索も順調に進んでいた。
そして光の道を通り抜けると、案の定煉の想像した通りの、いや想像以上の光景が視界を埋め尽くした。
周囲の壁、天井全てが翡翠で出来た空間。その中心に大きな翡翠色の結晶。それがこの場所のメモリークリスタルに違いない。
前回とは違い、クリスタルの周囲に海はなく陸続きとなっている。クリスタルの下へ行くのは容易だろう。
だが、煉は一歩も踏み出すことはできなかった。
「すげぇー……」
煉はその荘厳な光景に、目も心も奪われていた。
色褪せることなく何十何百年と輝き続ける翡翠の壁、誰にも触れられずにこれまでそこに在り続けた大きな結晶。
しかし、それだけではなかった。
まるでそのクリスタルを守らんとするかの如く横たわる、巨大な龍の骨。
数百年経った今でさえも、絶えず守り続けているその龍の姿に、煉はこれ以上ないほど感動を覚えた。
だからこそ、煉はその場に足を踏み入れることを躊躇っていた。
この美しい光景に、異物が混ざってしまったはいけないような気がした。
記憶の欠片を取り戻すことも重要だが、この芸術のような美しい景色を穢してはならない。そんな思いが頭を過る。
少しの間、立ち尽くし逡巡していた煉も、意を決し一歩を踏み出した。
たとえ、この場にとって異物だったとしても、自分は前に進まなければならない。そんな思いが勝った。
ゆっくりと、一歩ずつ、クリスタルの側に近づいていく。
そして龍の懐へ入る寸前、煉は立ち止まり静かに黙祷を捧げた。
この龍の遺骨には敬意を払わなくては。心の中で誰かがそう叫ぶ。
顔を上げた煉は再びクリスタルの下へ向かい、そっと手を触れた。
瞬間、煉の脳裏に失われていた記憶と新たな記憶が刻み込まれる。
「ああ、そっか。だから俺は……」
◇◇◇
――ある日を境に、あの優しかった母は豹変した。
原因は分からない。幼過ぎた俺には母が変わった理由を理解できなかった。
今思えば、極限のストレス状態故に母は狂ったのだとわかる。
感情の失った目で俺を見下ろす母。幼心にも綺麗だと思っていた母の姿は見る影もなく、顔は窶れ生気のない肌、艶を失った長い黒髪で御伽噺の魔女のように思った。
そんな母は、滂沱の涙を流し大笑いしながら、俺を殴りつけた。
何度も、何度も、何度も、何度も、何度も。
最初は殴られた痛みに涙した。それ以上に母親に殴られ続けることが辛かった。
だから、元の優しい母に戻してみせると奮起したこともあった。
母とした会話を手繰り、母が好きだと言った花を渡そうとした。母が好きだと言った菓子、動物、蝶、自分の知っている母の好きな物を全て差し出した。
しかし、それは逆効果だった。その全てが逆に母を傷つけていたらしい。さらに母の暴力は激しくなった。
極めつけは、母の呟いた言葉。その言葉が俺の心を一瞬で壊した。
『あなたを産んだのは、間違いだった……っ!』
間違いだった。何もかも、全て。
優しかった母の笑顔も、俺の思いやりも、俺が生まれた意味も。
全ては間違いだった。
無価値で、無意味で、虚無。俺の求めていたものは単なる幻想に過ぎない。
あの平和な日常すらも間違いだったのだから、元に戻るも何も、最初からそんなものは存在していなかった。
幼かった俺は、母のたった一言で心を仕舞った。
何もかもを諦め、感情すらも心の奥底に封じ込めた。
自分の身を守るために、母の心を守るために。
笑わず、泣かず、怒らず、喜ばず。俺の中から「感情」を消し去った。
どんなに殴られようとも、反応を示さず。無関心を貫いた。
すると、いつしか母から殴られることはなくなった。
互いに互いの存在を消した。
母の目に俺は映らず、俺の視界に母は入らない。同じ家にいるのに、お互いの存在を認知しなかった。
……俺たち家族は、とっくに壊れていた。
こうして記憶を振り返ると、母が豹変する数ヶ月前から知らない大人が数人、母を訊ねていることを思いだした。
良く来ていたのは二人。薄汚い酒に溺れた若い男とキッチリとした強面の老人。
どことなく既視感を覚えたことから、おそらく俺の父と祖父なのだろう。
母と何を話していたのかまでは知らないが、どちらもクズに違いない。
彼らと会った後の母の辛そうな顔も思い出してしまったから、そう思った。
思えば、俺が感情を失くしたことを知った母は、ひどく悲し気な顔を浮かべ、大粒の涙を流していた。
罪悪感でも抱えていたのだろうか。その時から、母の様子はさらにひどくなったように思う。
何にせよ、もう関係のないことだ。もう二度と、母と会うこともないだろうから。
二度と思い出さないようにと思っていた記憶を見せつけられた俺は、知らぬ間に怒りを感じていた。
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