第274話 痕跡

「自分の名前はわかるかい?」


 白衣を纏い、小さな丸眼鏡をかけた優し気な男性――ジャックが煉に訊ねる。

 彼も数年ほど前ここに流れ着いた漂流者の一人である。

 街にいた頃は、小さな治療院で医者をしていたらしい。

 その時と変わらず、この場所でも彼は医者として頼られているのだ。

 そんなジャックの下にひどく慌てた様子のイバラが駆け込み、煉のもとまで連れてきた。

 問いかけられた煉は、少し考える素振りをする。


「えっと……煉、です」

「ふむ。なぜここにいるのか、思い出せるかな?」

「あー……いや、全然。何も思い出せないですね」

「そうか。うん、わかったよ。まだ目覚めたばかりで混乱していることだろうから、もう少し休むといい。それでは、失礼するよ」

「どうも……」


 ジャックは側で心配そうに見ていたイバラを連れ部屋を出た。

 桟橋を歩いている途中、洞窟内を探索していたアイトと合流し、三人で診療所に向かう。

 診療所に付くと、ジャックは大きく息を吐き椅子に座り天井を見上げた。

 そんなジャックへ、イバラが詰め寄る。


「ジャック先生! レンさんは……レンさんはどうしてしまったんですか!?」

「まあまあ、イバラ君。少しは落ち着きなよ。焦ってどうにかなる問題ではないからね」

「す、すみません……」

「レンが目を覚ましたのか? それは良かったが……その様子じゃ何かあったみたいだな」


 イバラの様子から何かを察したアイトへ、事情を説明した。

 すると、アイトもまさかの事態に頭を悩ませた。


「レンが記憶喪失……? そいつは参ったな。一体なんだってそんなことに」

「原因はいろいろと考えられる。漂流したことで脳に一時的な衝撃を受けたとか、ね。ただ……」

「? 何か気にかかることでも?」

「ああ。彼……レン君と言ったかな? 彼の脳に魔法のような痕跡が確認された。どんな魔法かは僕には理解できなかったけれど……おそらくその魔法の影響で記憶を失ってしまったと考えるのが妥当かな」

「魔法……魔法なら何とかできるかもしれません」


 魔法と聞いて、イバラは思いついたように声を上げる。

 イバラがその勢いのまま診療所を飛び出そうとしたところ、ジャックが声をかけ止めた。


「待ちたまえ、イバラ君」

「止めないでください、先生。魔法なら……魔法なら私が何とかしてみせます!」

「気持ちはわかるが、まずは僕の話を聞いてからにしてほしい。事が事だ。焦ってはいけないよ」

「……わかりました」


 イバラは渋々頷き、再び椅子に腰かける。

 ジャックは、イバラとアイトにお茶を差し出すと、神妙な表情で話を続けた。


「魔法の痕跡が確認されたのは確かだ。それが原因の一助となっているのは間違いないと考えていい」

「それならっ……!」

「問題なのは、その魔法がかけられた場所だよ」

「場所?」

「ああ。魔法がかけられたのは――脳だ。だから、慎重にならなければならない」


 ジャックの話を聞いても、イバラは何が問題となっているのかすぐには理解できず、頭にはてなを浮かべた。

 その横でアイトは難しい顔で考えこんでいた。

 そして何か思い立ったのか、ジャックへ訊ねる。


「なあ、先生。その魔法の痕跡ってのはどんなものなんだ? 痕跡って言うと、魔力の残滓だとか、そういう残り香のようなものを思い浮かべるんだが」

「いや、そんな抽象的なものではないよ。彼の脳全体に、魔法陣が刻み込まれていたんだ。それも、何重とね」

「なっ!?」

「そんな!?」


 ジャックの言葉で、ようやく理解したイバラも、あまりの衝撃で言葉を失う。


「誰が何のために……いえ、どうしてレンさんだけがそんな……」

「それは僕にもわからない。だが、下手に魔法陣を弄ると彼の脳に深刻なダメージを与えてしまうかもしれないんだ。だから、慎重にいこう。大丈夫、僕も医者として必ず彼を直してみせる」







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