第89話 幸せな夢は

 ◇◇◇ 



 ――気が付くと、懐かしい景色が広がっていた。


 コンクリートに囲まれた高層の建物が立ち並ぶ世界。

 人の喧騒、行きかうたくさんの車、久しく感じなかった息苦しさ。


 ここは……俺がいた世界だ。


 見覚えがあるのは俺の家の近くだからか。

 しかし、どことなく視線が低く感じるのは気のせいだろうか。

 ふらりと歩き出し、通りがかった喫茶店に映った自分の姿を見てびっくりした。

 小学生くらいの身長しかなかった。というか、幼くなっていた。

 それなら視界が低いのも納得だ。


 だが、不可解なことが一つある。

 自分の姿から考えて、十二歳くらいか。

 この頃は、母親の癇癪が酷かったころだ。

 顔や体中に殴られたあざが残っているはずだった。

 しかし、どうだろうか。

 服をめくり確認してみても、あざどころか傷一つない。

 これはおかしい……。

 怪訝そうな顔をしている自分の顔を見ていると


「――――れん!」


 後ろから声を掛けられた。

 聞き覚えのある、というか誰よりも俺の記憶に深く刻まれている声。

 その姿を確認せずとも、誰なのかわかるほどに。

 やはり窓越しに映る彼女の姿も、記憶の中に残る幼い姿になっていた。


「……みか。どうしたんだ?」

「どうしたじゃないわよ! 今日は私と出かける約束でしょ! いつまでも来ないから私から迎えに来てみれば……なに自分を眺めてうっとりしてるのよ! 変態!」

「誤解にもほどがある。少し違和感があったから確認していただけだ」

「違和感も何もいつも通りじゃない。相変わらずだるそうで眠そうな目をしているわ。毎日つまらなくて退屈だって。私がそんなれんの人生を変えてあげるの。感謝してよね!」


 と、上から偉そうに言ってくるのは変わらない。

 昔から美香はこうだった。

 しかし、この姿がいつも通りか……。


「なあ、みか。変なこと聞いてもいいか?」

「何よ、改まって」

「俺が体中にあざ作ってた時ってあったか?」

「何バカなこと言ってんのよ。あるわけないでしょ。……もしかしてそういう趣味なの?」

「いや、母さんの癇癪が……」

「おばさんが? それこそありえないわね。おばさん、優しくていい人じゃない。癇癪なんて起こすはずもないわ。そんなあほなこと言ってないで、ほら、行くわよ!」


 そう言って、美香が俺の手を強引に引っ張って歩き出す。

 一体どこに連れて行かれるのやら。

 それにしても、この世界は一体……。


 その後、美香が満足するまで俺は連れまわされた。

 近くの公園を巡り、学校に忍び込んだり、地獄の階段を上ったり。

 こんな無邪気に走り回ったのはいつ以来だろうか。

 疲れて果てて家に帰る。家は小さなアパートの二階。

 母親と二人暮らしだった。

 俺にとっては狭苦しい箱庭でしかない。

 そう思っていた。今日までは。

 家に近くなるにつれ、強く漂ういい匂い。

 それが自分の家からだとは思わないだろう。

 窓から明かりが灯っていることがわかる。

 記憶の中の母親は基本家にはいない。いても電気なんてつけるはずもない。

 ましてや料理をしているのかもなんて、違和感しかない。

 記憶との違いに混乱しながらも、玄関を開けて中に入る。


「――――おかえり、煉。ごはん、できてるわよ。手洗ってきなさい」

「………………あ、ああ」

「ふふっ。何その返事。あの人に似たのかしら」


 初めて聞いた、母親の楽しそうな声。

 ヒステリックな叫びしか知らない。

 俺はこんなもの知らない。


 ………………いや、知ろうとしなかっただけで、本当はこんな時があったのかもしれない。


 癇癪を起して殴りかかることもなく、飯を作って子供の帰りを待つ、俺にとって理想的な母親。

 こんな幸せな日があるなら俺は……このまま……。


「――――――――バカなことを考えていないで、目を覚ましなさい」


 突然頭の中に響いた少女の声。

 その声を聞いた瞬間、幸せな景色も声も、全て遠く感じた。

 まるで暗い部屋でテレビでも見ているかのような、そんな感覚。

 誰かの気配を近くに感じる。最初からずっと一緒にいたと思うほど自然に。


 暗い部屋に唐突に灯った蝋燭サイズの火。

 次第に大きくなり、形を変える。

 真っ赤な髪に右腕から顔にかけて炎のような紋様。

 どこか自分とそっくりな少女に姿を変えた。


「今の世界はどう感じた?」

「……とても幸せだった。ずっとここにいたいと思えるほどに」

「そう。それがあなたが心の奥底で求めてやまなかったモノ。あなただけの望み。あのまま浸っていたら、二度と帰ってこれない」

「それでも俺は……」

「本当に? これがあなたの今の望みなの? 仲間も誓いも信念も、全てを捨てて作り物の世界で与えられるままに生きるのが、あなたの望みなの?」


 少女の言葉がなぜか心に突き刺さる。

 本当にそれでいいのか、と。

 優しい母親、先を歩く幼馴染、そして……感情を捨てなかった自分。

 全て叶わぬ理想だった。手を伸ばしても届かない彼方の夢。

 泣き叫んで悲鳴を上げても、自分には過ぎたものだと切り捨てた。

 それが目の前にあるのに、どうして……俺はこんなにもやるせない思いを感じているのだろうか。


「それがあなたの答え。あんなちっぽけな幸せで満足できるほど、もう弱くない。人に与えられたものではなく、自分自身で掴み取ることができるはず。ねえ、煉。あなたにはやるべきことがあるでしょ?」

「……ああ、そうだ」

「彼との契約も果たしていない」

「あいつを狂わせた奴もぶっ飛ばしていない」

「やられた分はお返ししないとね」

「百倍にして返してやらねぇとな」

「もう、立てるでしょ?」

「ったりめぇだ。俺はもう迷わない。あの日、そう決めたんだ」

「煉、私はあなたのために力を貸す。必要な時は呼んで。私の名前は――――」


 煉は幸せな世界を手放し、夢から現実へと――。



 ◇◇◇



 煉が目を覚ますと、泣きそうな顔で覗き込むイバラの顔が近くにあった。


「レンさん……っ」

「あー……すまん?」

「なんで疑問形何ですかっ! いつもいつも……心配かけないでください!」

「いてっ」


 お仕置きだと言って、イバラは煉の額をはたいた。

 鼻をすするイバラの声は、どこか安堵を含んだものだった。

 余程心配していたのが伝わり、煉は申し訳なさそうにイバラの頭を撫でた。


「もうっ。子供扱いしないでくださいっ」

「すまんすまん。もう大丈夫だから」


 起き上がった煉は体が十分に動くことを確認した。

 そして周囲の見渡した。

 簡易的な屋根が作られていて、その下で煉は寝ていたようだ。

 隣でずっと見ていたのだろうイバラの奥にはアイトが眠っていた。


「アイトさんは先に眠ってしまいました。彼も心配していましたよ」

「そうか。あとで謝らねぇとな。聖女は?」

「レンさんが倒れてから消えてしまいました。どこに行ったかは……」

「いいさ、別に。次会ったら仕返ししてやる」

「勝てるんですか……彼女に……」


 イバラは心配そうな表情を浮かべていた

 そんなイバラの心配を吹き飛ばすかのように、煉は不敵に笑って言った。


「――――勝つさ。絶対にな」






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