第5話4 すでに俺は、お前を選んでたんだから

「……ごめん、翠華」


 今のは、正人が翠華の頬を平手で叩いた音だった。


「正……くん?」


 何が起こったかわからない、そう言いたげに翠華は目を丸くして彼の顔を見据えた。そんな彼女の瞳を正人は静かに見つめている。


「……」


 直後、じわり、と翠華の両の目に涙が浮かんだ。それは決して頬を叩かれた痛みからではない。

 どう足掻いても、目の前の愛する男の首を縦に振らせることは不可能なのだと、心でわかってしまったからだった。


「どうして……? じゃあ……私は、どうすればよかったの……?」


 涙はやがて氾濫するように溢れ、頬を伝い、どんどん流れ落ちていく。


「どうすれば〝普通〟じゃなくも、正くんにずっと見ていてもらえたの……?」


「翠華……」


「私だって……私だって、みんなみたいに〝普通〟になりたかった! 〝普通〟になって〝普通〟に学校行って、〝普通〟にお友だちとお喋りして、勉強して、部活動して……それで、〝普通〟の女の子として、正くんに見てもらいたかった!」


 ずっと心の底で溜まり続けていた想いが、堰を切ったように吐き出される。


「でもお喋りも、勉強も、運動も……何一つ、上手くいかない! どれだけがんばってもがんばっても、全然何も応えられないの! 今まで生きてきて、〝普通〟になんて一度たりともなれなかった!!」


 かつてはいろんな人に期待され、応援もされ、助けられた。そして手を抜くことなく、一生懸命に彼女なりに最善を尽くし、応えようとがんばってきた。


 でも何一つ、世の中の、人間社会の言う〝普通〟を満たすことは結局一度もなかったのだ。


「ずっとずっと行き止まりの毎日で……不安で怖くて苦しくて……でもどうすればいいのか全然わからなくて……。宿題をして、あの部屋で正くんを待ち続けることだけが、私にある唯一の生きてていい理由だった……」


 この世界で生きているのに、人間社会という輪からは弾き出され、どうしようもなく先の見えない毎日。そんな不安の中でずっと戦っていた。


 正人は、そこまで彼女の気持ちを考えたことがなかったかもしれない。いつも自分の一言一言に一喜一憂する、守りたい可憐な少女。それ以上がなかったのだ。


 でも実際、彼女だって考えるし、想うし、悩みもする。


「だけど、こんな毎日、ずっと続くわけがない……。いつか正くんにも好きな人ができて、私なんて邪魔になる」


「邪魔って……。いつも言ってるだろ、見捨てないって」


「それは今だから言える。本当に好きな人ができちゃったら、きっとその人を選ぶ。だって〝普通〟ができない人間未満の私なんかより、〝普通〟の女の子のほうがいいに決まってる……」


「人間未満……」


 そんなふうに自分を思っていたのか。


「私……それだけは嫌だった。たとえ友だちや学校の先生、お母さんやお父さんに見捨てられても、正くんにだけは……見捨てられたくなかった。だから……正くんの前から、私以外の人たちを……」


「すべて、消したわけか」


 翠華はうつむき加減に、小さくうなずいた。


「〝普通〟になれない私が、正くんにずっと見ていてもらうにはそれしかなかった……」


 それが、この世界からすべての人々を消した理由。バグを行使した理由。


「翠華……」


 なんてバカなのだろう、この子は。


「まったく……」


 正人は、軽く手刀でポンッと翠華の頭を叩く。


「いたっ」


 ほとんど叩くというより、〝置く〟といったほうがいいくらい力をこめていない。本気で叩くのは、さっきの平手打ちだけで十分だ。


「バーカ」


「……?」


 突然の子供レベルの悪口に、翠華は不思議そうな顔を浮かべた。


「本当に、翠華はバカだ」


「……そ、それは、わかってる。全然勉強ができなくて……」


「そうじゃない。〝普通〟だとか〝普通〟じゃないだとか、見捨てられるだとか見捨てられないだとか、そもそもそういう考え方が間違ってるってこと」


「間違ってる……?」


 意味がわからない、という顔をしている。そりゃそうだ。そんな考え方をするくらいなのだから、気づいているはずがない。


 正人の、翠華への気持ちに。


「ま、言ってしまえば、俺もバカだ。いつまでも無自覚でいて、自覚してもずっとチキンになって言わなかったから、これだけこじれちゃったわけだし」


「正くん……?」


「なあ、翠華」


 正人は翠華の目を見つめた。


「な、なに……?」


「好きだ」


「え……」


 〝今何を言われたんだ?〟という顔をしている。だから念押しで正人は繰り返した。


「翠華、俺はお前が好きだ。一人の男として、一人の女の子であるお前が好きだ」


 途端、今までに見たことがないくらい、翠華の頬が紅葉のように美しく燃えた。


「え、う、嘘……」


「嘘じゃない。心からの想いだ。幼馴染として以上に、お前を恋人にしたい」


 そう言って、彼女に驚きや慌てる時間も与えず、その柔らかい唇に自身の唇を重ねた。


「……!」


 目を見開き、キスされたことに翠華は一瞬だけびっくりする。しかしやがて落ち着きを取り戻し、目を閉じて身を委ねた。


 しばらく時が止まったかのように、じっと唇を重ねたあと、ゆっくりそっと正人は翠華から離れる。


「私のこと、好きって……本当? 幼馴染じゃなくて……」


「言ったろ、〝恋人にしたい〟って。それにただの幼馴染にこんなキスはしない。お前が〝普通〟になれないだとか、見捨てられるだとか、そんな不安を持つ必要は最初からなかったんだ。そもそも俺はお前に惚れてるんだから」


 そして、続けて言う。大事に、愛おしさをこめて。


「すでに俺は、お前を選んでたんだから」


「……!」


 翠華の目に、じわりとまた涙が浮かんだ。


「気づいたら、あるいは自分でも気づかないうちに、翠華への想いが恋愛感情になってた。そこに根拠とかはなかった。なんだか一緒にいて……ずっと一緒にいたくなる、って思うになったというか」


 かつてこのセリフを、正人は来栖に言われた。今ならその意味がはっきりとわかる。


 それは翠華も同じだったようで、


「うん、なんとなくだけど……私にもそれ、わかる。私もいつの間にか、正くんのことばっかり考えてて、幼馴染じゃない別の〝好き〟なんだって気づいた」


 自分が相手に抱くその気持ちが、恋愛感情だったと気づく瞬間はあるだろう。皆元に煽られ気付かされたあのときのように。しかしいつからその気持ちだったかなんて実は案外曖昧なもので、恋愛感情は何のドラマもなく勝手に芽生えるものなのだ。


「翠華。まだお前の中に、この世界から人々を消しておきたい理由はあるか?」


 正人は問う。


「それは……」


 少し考えて、彼女は首を横に振った。


「……ない。今、なくなった」


 しかし「でも」と続ける。


「〝でも〟……なんだ?」


「〝もっと〟、正くんがほしい。キスだけじゃなくて……」


「翠華……」


 その言葉の意味するところは、恐らく――。


「ごめんなさい。ワガママ言って……」


「いいよ、ワガママでも欲張りでも。それでお前が安心するなら、俺は受け止める」


「うん……」


 二人は再び唇を重ねる。今度は翠華からつま先立ちになって、正人の身長に向けて顔を突き出し、それを彼は受け入れた。


 かくして、その直後世界から消えていた人類が戻る。人々は何事もなかったかのように今まで続けていた日常を再開し、引き続き何の変哲もないいつもの世界が流れていった。

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