第4話1 翠華は俺のこと、どう思っているのだろう?

 正人が視線をまっすぐ向けた先には、白い壁があった。

 否、壁ではなく天井である。寝転んでいるから、上ではなく前のように見えるだけだ。


「ふぅ……正くん……」


 正人はベッドの上に仰向けになり、翠華の〝くんくん〟の餌食になっていた。翠華は正人の胸元にすがりつくように顔を埋めて、深呼吸を繰り返しながら憩いの時を楽しんでいる。

 そう、今いるのは伊武家の翠華の部屋。


「翠華、もう……」


 〝終わりでいいか?〟と尋ねようとしたが、


「あとちょっと……ダメ?」


 先回りされて逆質問が飛んできた。顔を上げてすがるような上目遣いで尋ねられると、正人はどうしても〝ダメ〟とは答えられない。


「ちょっとだけだぞ」


「うん……ありがと」


 なんてやり取りを、実はもう三度やっている。

 正人としては早く終わらせたい事情があった。今日の〝くんくん〟はいつもと比べて別段長引いているというわけではない。まだ始まって数分ほどだ。しかし〝今まで〟と〝今〟では、この〝儀式〟への捉え方が異なっていた。


 まあ、要するに、彼女との関わりに羞恥心が芽生えた。


 翠華への恋愛感情を自覚した今の正人は、事あるごとに翠華を意識しまくっていた。もちろん異性としてだ。今まで特になんとも思っていなかったスキンシップのすべてが、動揺と緊張の嵐である。


 特に〝くんくん〟は、翠華に一番密着されるシチュエーションだった。しかも今日に関しては、ベッドの上で彼女に抱きつかれているという状態。部屋に入った途端、〝飢餓状態〟の彼女に押し倒されたのだ。


 彼女いわく、なぜだか長い間〝くんくん〟してない気がした……とのこと。

 皆元に存在を消されていた間のことは自覚も記憶もないようだが、感覚的に〝しばらくこの世界にいなかったこと〟を感じ取っているのかもしれない。


 とにかくそのときの彼女は、目が獲物を見つけた肉食獣のようで、抵抗なんてできなかった。いつもは正人の言うことを聞き、その意思を無視しない彼女でも、〝飢餓状態〟になるとその限りではないようだ。


 何よりこの抱きつきの状態が良くない。簡単にいえば、彼女の体型は〝男の本能を問答無用で刺激してくる〟ものなのである。彼女自身の体重もあってか、重力のおもむくまますべてが押し付けられていた。


(や、柔らか……って、ダメだダメだ)


 とにかく正人は理性を保とうと必死だった。もっといえば、下半身が反応しないように抑えるので必死だった。ゼロ距離で密着しているのだ。もし本能に身を任せたら、完全に感触でバレる。

 翠華は自分のことを信用し、こうして身を預けてくれている。だというのに、実は性的な目で見ていましたなんて言えるだろうか。否、言えるわけがない。それは裏切りだ。

 自分は翠華のことを女の子として愛している。しかし、彼女にとってきっと幼馴染なのだから、少なくともこの子の前ではそうあらねばならない。

 ――と、ここまで考えて正人はふと思った。


(翠華は俺のこと、どう思っているのだろう?)


 もちろん、幼馴染として一定の信頼は得ているだろうという自負はある。しかしまったく〝それ以上〟の想いはないのだろうか。

 翠華だって、女の子だ。だから――、


「なあ、翠華」


「なに……? もう少しだけ……」


「いや、そうじゃなくてさ……」


 ってここまで言いかけて気づく。

 〝なあ、翠華って俺のこと恋愛的な意味で好きか? どう思ってる?〟

 こんなこと言ってしまえば、それはもはや愛の告白ではないか。


「ごめん、なんでもない。〝くんくん〟は好きなだけしていいぞ」


「うんっ……!」


 翠華はこちらが言いかけたことに疑問を抱かず、嬉しそうに笑顔を浮かべるとまた顔を胸元に埋めた。実際は〝何を言いかけたのだろう〟という疑問はあっただろう。しかし〝正人がそれを口に出さなかった。ということは自分が聞く必要のないこと〟と処理し、あっさり執着を捨てたのだ。

 まるで猫か犬のように、頬や鼻をすりすりしながら正人のにおいを楽しむ翠華。

 そんな彼女に愛おしさを感じながらも理性と本能の狭間で、正人はこのあと十分ほど耐えることになる。



     ×    ×    ×



 それから時刻は十八時。正人は翠華に〝このあと予定がある〟と話し、早めに一緒に夕食を済ませてそのまま伊武家をあとにした。いつもより早い別れからか、玄関でこちらを見送る彼女の顔はやはり寂しそうであった。


(正直、〝バグ持ち〟なんて厄介な問題がなければ、ずっと一緒にいたいんだけどな……)


 なんて思いながら、路上で歩きながらスマートフォンを出した。翠華に話した〝予定〟とやらをこれから済ませるのだ。


 そう、紙鳴先生への連絡である。実は正人、皆元のバグを修正したことについて、まだ彼女に報告していなかった。皆元と別れたあとは翠華に会うことを優先していたので、先生への報告の時間を後回しにしていたのだ。

 彼女の連絡先に表示された通話ボタンをタップし、スマートフォンを耳に当てる。そして呼び出し音が人の声に変わるのを待った。

 すると、そのときだ。


「スマホはポケットに仕舞っていいぜ?」


 と、背後から声がした。


「せ、先生!?」


 気づけば、後ろに紙鳴先生が立っていたのだ。

 さっきまで付近に人の気配なんてなかったので、突然話しかけられて一瞬心臓が跳ね上がった。何の前触れもない登場。神様というより、まるで幽霊である。


「お、驚かすなよ!」


「はははっ、わりぃわりぃ!」


 と、まったく悪びれもなく謝罪の言葉を述べる。

 そんな彼女の格好は普段学校で見るものでも、家で見たときとも異なっていた。白のブラウスに紺色のミニバルーンスカート、頭にはスカートの色に合わせた紺色のボーラーハットを被っており、まるで別人のような印象である。レディーススーツやジャージ姿しか見たことがないせいか、見た目相応の女性――というより少女らしい格好に正人は思わず釘付けになった。


「な、なんだよ、ジロジロ見て」


 あまりに見つめすぎたせいか、少し恥ずかしそうに頬を赤く染め、ボーラーハットのつばを指でつまんで表情を隠した。


「あ、いや。意外な格好してるなって……」


「失礼だな。これがオレの外出用なんだよ。スーツは仕事用だ」


「そうだったんだ……」


 どうやら、彼女は意外と――と言ったら失礼かもしれないが、こういう普通のオシャレも嗜むようだ。

 それから正人はこんな話をするつもりではなかったのを思い出し、


「……そうだ、〝直してミカちゃん〟使ったぞ」


 と改めて報告した。

 この言葉が意味するところは、彼女であればすぐにわかるだろう。 


「すでに把握済みだぜ。それを使えば、こっちにもわかるようになってるからな。だから来てやったんだ。……ああ、空気読んで、来るタイミングを図ってやった礼ならいらないぜ?」


「う……」


 どうやら報告を後回しにし、翠華を優先したことについてはしっかりバレているようだ。


「少し長くなりそうだし、道端ってのもなんだ。どっか移動すっか」


 それならと正人は近くの公園を提案し、二人はそこに移動することにした。

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