第2話1 ま、正くん……?
『伊武』と書かれた表札のある家の前にて。
ここまで電車移動を除き、ほぼ歩くことなく走ってきた正人は、全身汗でびっしょりになっていることにも気づいていなかった。頭にあったのは、ただ翠華に会うことだけ。ここに来ることを優先したので、当然夕飯の買い物なんてしていない。買うならまたあとでいいだろう。
家に入ると、そのまま靴を脱ぐなり二階へ向かう。
そして翠華の部屋の前に立った。
「……」
ドアノブを握った途端、このドアの向こうにもし彼女いなかったらどうしようという不安に駆られる。しかし他に一時的に消えていた人間たちは、みんな元に戻ったのだ。ここまでの道中も問題なく人はいた。なぜ消えたのかも、それが元に戻ったのかもまだわからないが、結果として今ドアの向こうにいて然るべきである。
それに、紙鳴先生の〝無事だ〟という言葉には、どうしてか心に訴える説得力があった。
彼女は一体何者なんだろうか。
(って、今はそんなことはどうでもいい。翠華の身の安全を確認するのが先だ)
さすがにあの謎現象に対し、理由もわからないまま〝なかったこと〟にし、忘れて日常を過ごすことは正人にはできない。だから先生には事情を聞かせてほしいと答えていた。しかしその前に翠華の身の安全だけは最優先でこの目で確かめたかったため、こうして先に顔だけ見に一時的に帰ってきたのだ。
そうして、ドアを開けると――、
「あ」「あ」
二人揃って、目が合い、ポロッと一言。
それもそのはずである。ドアを開けた先の光景は、このときの正人にとって完全に予想外だったからだ。普段なら〝もしかして〟と思うこともあっただろうが、彼女の身の安全を確認するということに意識を持っていかれたせいで、〝その〟可能性が想像から抜け落ちていた。いつもならちゃんとノックをして入って問題ないか確かめるのに、すっかり忘れていたのだ。
簡単にいえば、部屋は珍しく照明がついていて、そして翠華は着替え中だった。布一枚覆っただけの下着姿だったのだ。手にはこれから着る予定らしいシャツを持っている。
「ま、正くん……?」
唐突な正人の到来にぽかんとする翠華。
「わ、悪い!」
と慌てて正人は部屋の外に飛び出し、ドアを締めた。まさかこんな状況に遭遇するとは。
「う、ううん、いいよ。気にしてない」
ドアの向こうから返ってくる翠華の言葉。若干の動揺を含んではいるが、そこに怒ったりしている様子はない。
それにしても、と正人はさっきの光景を思い出す。普段はパジャマといったゆったりした服を着ているせいで体型が目立たないこともあり、あまり意識することもなかったが、こうしてありのままのシルエットを見ると、翠華はとても女性的な体付きをしていた。幼馴染ということもあり幼い頃はよく一緒にお風呂にも入ったが、朧げに記憶にあるその肢体とは似ても似つかない。
(改めて、気づかないうちに、大人に……なってたな)
胸は大人の女性のそれであり、しかも標準よりだいぶ大きいかもしれない。雑誌などで見かける水着姿のグラビアアイドルの中で、〝巨〟を超えて〝爆〟で売り出されている女性の域と言っていい。臀部周りの肉付きも端的に言うと安産型というべきか。一方でウエストは運動もせず寝て食ってが主な彼女にしては、ちゃんとくびれがあってメリハリのある体型をしていた。
(って、よく見すぎだろ、俺! あいつは幼馴染で、妹みたいなもんだぞ!)
これはきっと彼女の〝意外な成長ぶり〟という思いがけぬアクシデントに、びっくりしてしまったからだろう、混乱して普段ではありえない思考をしてしまっているのだ――正人はそう脳内で処理した。
なにはともあれ、翠華の無事は確認した。彼女は、消えておらず、ちゃんと存在している。
正人はほっと安堵した。
「なあ、翠華」
「何?」
ドアの向こうから返事が来る。
「えっと……」
さっきの人々が消えた現象をどう説明していいかわからなかった。何か〝現実的にありえないことが起こった〟――以上のことはまだ何もわからないのだ。
「ごめん、やっぱなんでもない」
「そう……? わかった」
雰囲気から察するに、彼女もまたさっきの異常現象について町の人々と同様、〝そういうことがあった〟という自覚はないようだった。
そのときふと思う。町の人々と同様に今は普通に戻っているなら、来栖はどうなったのだろうかと。連絡先も住所も知らない以上、今すぐは確かめられなかった。
(それも含めて、〝訊く〟しかないか)
「なあ、翠華。俺またこれからすぐに出るから」
「え?」
少し不安そうな聞き返しが部屋の中から響く。
「ちょっと学校の先生に呼ばれててさ」
〝もしもっと詳しく知りたいなら、オレが特別授業してやってもいいぜ?〟
すべてを知っているかのように、彼女はそう言った。
「そう、なんだ……」
「ごめんな。〝くんくん〟はそのときでいいか? なるべく早く戻るから」
「うん……」
「だから今日はちょっと夕飯が遅くなると思う」
「うん、わかった……待ってる」
「ああ」
そのまま正人は翠華の顔も見ず、その場をあとにした。
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