第1話4 〝この子は自分が守らないと〟
「翠華、勉強はちゃんとやったか?」
「うん、やった。言われた通り、言われた範囲、ぜんぶ」
そう言うと机に向かい、閉じて置かれている『数学』と書かれた問題集と、ペン立てにあった赤のボールペンを手に取って正人のもとに戻った。
「はい」
と言って差し出された問題集とペンを、正人は受け取る。引きこもって学校に行っていない彼女に、本屋で買った基本五教科の書き込み式の問題集を与え、土日を除く月曜日から金曜日の毎日、一日一科目一定の課題をこなすように言っていた。といっても時間的には一、二時間あれば終わるくらいの量である。ちなみに今日は数学の日だ。
正人はベッドに腰掛けると、問題集を開き最後のほうに載ってある解答・解説ページを見ながら赤ペンで採点を始める。
「一応訊くけど、答えは見てないな?」
「うん、見てない。正くんが見るなって言ったから」
その言葉を、正人は微塵も疑うことなく受け入れた。
なぜなら彼女は正人の言葉であれば、〝忠実に〟成し遂げようとするからだ。それが正しくても誤りでも、まるで刻まれたプログラムのように。
そういう女の子なのだ、翠華は。
「前と同じようなところも、結構間違えてるな……」
カンニングをしない以上、その問題集にはリアルな学力が反映される。正直言って丸のついた数は、半分より少ない。今日やらせた範囲中、三割にも満たないだろう。
その言葉を聞いて、途端、自分を責めるように翠華は表情を曇らせた。
「ごめんなさい。次は、上手くやるから……」
目尻に涙が浮かび、今にも頬を伝いそうだ。正人はそこまで厳しく言ったつもりではないが――、
「正くんが教えてくれたこと、また……上手にできなかった」
それが彼女の心に正人が思う以上の重い罪悪感となって、のしかかっていた。
「あまり自分を責めるな。全体で見れば先週よりミスは減ってる。この調子で次も頑張ろう」
「うん……」
ただ本来であれば全問正解とはいかなくても、せめて七割以上は丸がつきそうなものである。なぜなら〝五教科〟と言っての通り、その範囲は中学校レベル――それも中学一年生のものだからだ。しかも本屋に売っている問題集でもなるべく簡単なものを買っている。しかしそれでも数学に限らず、五教科とも平均点は低い。何度同じ出題範囲を繰り返しても、一向に向上しない。たまに一時的に平均点が上がることはあっても、例えば間に別の教科を挟むと最終的にはまた低い水準に逆戻りになるのだ。
中学時代は引きこもらずに学校に行っていたが、その当時から彼女の学力は中学生にはなれなかった。別にサボっていたわけではない。むしろ必死に学ぼうと、人一倍真面目に取り組んでいたほうである。間違えてもできるようにと何度も挑んだ。時間も他人より多くかけた。
しかし、できなかった。
どれだけがんばっても、彼女は世間一般の言う〝普通〟にはなれなかった。教師たちや正人の協力も、すべてが効果なく終わったのである。
「そうだ……。正くん、そろそろ夕飯食べる? 今日はカレーの日」
「ああ、そうだな。……っと、忘れてた。今日予算内で買える牛肉が売り切れだったから、代わりに豚肉買ってきたんだが、それでも大丈夫か?」
「うん、じゃあ今日はビーフじゃなくてポークカレー?」
「だな」
正人は毎日、翠華と一緒に夕飯を食べていた。無論、自身の親には事情込みで伝えて了承を得ている。他人の家庭に干渉するほどではないが、正人による翠華の世話を両親は同情心から容認していた。
「じゃあ、作ってくる。正くんは部屋で待ってて。できたら呼ぶから……乞うご期待」
そう言って、翠華は部屋を出ていった。
その顔は数少ない好きなことだからか、やる気に満ちている。でもそのやる気の根っこに、〝さっきの失点を取り戻さないと〟という必死めいたものも窺えた。
「別に、そんな気負わなくていいのに」
彼女は勉強とは違い、レシピ本さえ見れば、レシピ本のとおりとまではいかないが、何とか料理として形になるものを作ることができた。たいていやや塩辛かったり甘かったりと、細かいミスはあるも、正人は彼女のがんばりが見えるその味が好きだった。
「きっと料理好きな一面を知ってもらえたら、仲のいい友だちも……って、今さらか」
一人になった部屋で、小さくつぶやく。
もしもっと違う視点で彼女の良さを知ってもらえれば、いじめられて、結果こうして引きこもることもなかっただろうに。
今でも正人は、翠華を救えなかったことを悔いていた。
ふと目は机の脇のフックにかけられている中学の頃の学校指定カバンに向く。もうそれが必要になることはない。
「……」
翠華は昔から正人が行動するとき、どこに行くにもずっと後ろをくっついてくるような子だった。
彼女が世間のいう〝普通〟に至れないことを、出会った頃から正人は知っており、付いてくるのを決して拒否しなかった。よく周りに冷やかされたりはしたが、すべて受け流していた。普通子供はそういう冷やかしに弱いものだが、正人の場合〝この子は自分が守らないと〟という使命感や保護欲のようなものが強く優先されたのだ。
だが、正人が高校一年生になったとき、一つ下で中学三年生の翠華とは過ごす時間が減ってしまった。当然だ。高校と中学では場所や環境、日常がほとんど重ならない。しかしそれでも今はスマートフォンのある世の中。週末以外に会うことは減ったが、細かく連絡は取り合っていた。
でも――正人は気づけなかった。一人になった翠華が、いつの間にかいじめを受けていたことに。気づいたときにはすべてが手遅れだったのだ。
〝伊武さんちの翠華ちゃんが不登校になった〟と自身の母親から聞いて初めて、正人は彼女の抱えていた苦しみを知ることになる。スマートフォンのSNSチャットアプリや通話だけでは、心配かけまいと彼女が気を使っていたことに、まったく気づけなかったのだ。
なんとか人づてに翠華のクラスメイトのとある女子を捕まえて事情を聞いたところ、どうやら他に友だちはおらず、翠華はいつも一人だったようだ。慣れた人以外とではコミュニケーションが極端に取れず、勉強も加えて運動も、それ以外もいろんなことが他人よりできなかった。
そういった世の中の〝普通〟になれないことが〝劣る〟とされ、一部の女子グループから〝日頃のいろんなストレス発散の的〟にされてしまったのだ。自分より下位だと思う存在なら、蔑ろにしていい。そんな考えのもと〝的〟になった彼女は、廊下でのすれ違いざまに悪口を言われたり、SNSで悪口を拡散されそれを見せつけられたり、私物の教科書やカバンに落書きされたりカッターで切り裂かれたり、最悪捨てられたりまでした。今机の横にあるカバンも、〝何代目〟なのか正人も知らない。他にもいじめの主犯グループは、クラス中に彼女を無視するよう強要もしたらしい。
実際にやられたことを客観的に見れば、本人が怪我をしたりといった重大なものはなかった。しかし他人から毎日のように何かにつけて蔑ろにされるという状況は、人格を著しく傷つけるには十分だった。
特に女子のいじめは本人に直接害が及ぶことは少なく、コミュニティからの排斥を中心にした精神的攻撃が多いと正人は聞いたことがある。しかも表面化しにくく、裏からチクチクやることが多いらしい。その通り、教師陣や他クラスに悟られることなく半年近く様々な方法で精神を傷つけられた翠華は、ついに学校に行くことをやめて――つまり不登校になった。
そして、そのまま卒業式に出ることもなく、中学校を卒業。高校受験もしていない。
当時いじめの存在に明確に気づいていたのは、同じクラスメイトくらいだろう。でもいじめグループとの対立や巻き込まれを恐れ、誰も彼女を助けなかった。様々なコネを使って正人は事情を話してくれるという女子生徒と出会ったが、その子に到達するまでかなり苦労したものだ。
(もっと早く気づいてやれてたら……)
翠華からいじめの主犯格の名前は聞いているし、情報源であるクラスメイトの女子からは修学旅行の集合写真を見せてもらって外見も知っている。しかし名前と顔を知っていても、すべてが終わって証拠もない今、もやはどうすることもできない。現行犯で捕まえられなかった時点で、表立って罰を与えることはもうできないのだ。
(〝この子は自分が守らないと〟か。思うだけで、何もできてなかった)
その悔いは、今も正人の中に深く突き刺さっている。
(だから今度こそは、ちゃんと有言実行しないと……)
これは罪滅ぼしだ。あのとき苦しんでいた翠華に、気づいてやれなかった自分の義務であり責任。〝やらなければいけないこと〟なのだ。
だから他の些細なこと――例えば他の誰かと恋人になるとか、そんなことに時間は使えない。
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