第1話3 いつもの〝くんくん〟か?
「結局来栖、休んだな」
学校帰り、正人は食材の詰まったスーパーのレジ袋を提げて、住宅街を歩いていた。
ただの体調不良か、それとも昨日のことが原因か。振られることを悟ったか、単に顔を合わせるのが気まずくなったか、そもそも振らせないために――さすがにそれは考えすぎか。
(もしSF的に過去へ戻る力があれば、告白を回避したのにな……)
そうすればこうして悶々と悩むこともない。彼女も傷つくことがない。でもこの世界にはそんなSFじみた摩訶不思議な能力は存在しないし、そもそも――、
(せっかく勇気を出して告白してくれたのに、なかったことにするのは少し違うか)
と思った。
(そういえば、今日あの子が休んでいること、誰も気にしてなかったな)
彼女はクラスでも、決して多いほうではなかったが、友人が何人かいたはずだ。その誰もが彼女の名前を口にしていなかった。
(実は嫌われてるとか……?)
イジメの可能性を正人は考える。
でもそれだとおかしい。思えば教師たちも同様だった。各授業の出席確認で別段彼女が休みであることへの言及はなかったのだ。彼らまでそういう〝無視〟に加担しているのだろうか。
(考えすぎだな)
きっと自分にはわざわざ意識してしまう理由があるから、逆にあまり誰も気にしていないことが気になってしまうのだろう。昨日のことがなければ、自分も彼女の欠席なんて無関心だったに違いない。案外人は他人に対して、興味がないものだ。
(頭を切り替えよう)
学校から最寄り駅まで徒歩五分、そこから電車でいくつかの駅を乗り、降車後駅からさらに徒歩十分。今はその最後の十分の途中にあった。
そして正人は一戸建てである赤土家の前に到着――したが、そのまま立ち止まらず通り過ぎて数軒先の別の一戸建てに向かったのだった。
表札には『伊武』とある。そのまま躊躇せず門を開けて入り、ポケットから鍵を取り出して、鍵穴に差し込む。そして九十度回転、解錠してドアを開き、中に入った。別に家を間違えたわけでも、泥棒に入るわけでもない。今から行うことは正人にとって学校生活と同様に――否、土日も含めるので、学校生活以上に日課となるものだった。
「暗いな……」
日も暮れようとするこの時間帯は照明がなければ薄暗い。特に窓と接していない廊下は、玄関ドアが開いて初めて最低限の光が流れ込んだと言っていいほど暗かった。
正人は照明をつけつつ廊下を抜け、リビングダイニングに向かった。出入り口付近でスイッチに触れてさらに照明をつける。
「ん?」
ダイニングテーブルの上に一枚のメモと、長形三号の茶封筒が置いてあった。
『正人さん。いつもありがとうございます。こちら今月分です』
その茶封筒に入っていたのは、数枚の紙幣だった。他人行儀なメモを適当に読み終えると封筒の中に戻し、そのままカバンの中に放り込む。
それからキッチンに向かって冷蔵庫に買ってきた食材を収めたあと、廊下に戻って階段を上り、次は二階に向かった。
案の定、二階も薄暗く、そして静かだ。まるで留守で誰もいないかのよう。
しかし〝それはありえない〟と正人は知っている。その足は迷わず一番奥の部屋に向かい、そして手の甲でコンコンコンとドアを優しく叩いた。
「……」
中にいるだろう、部屋主からの反応はない。
「入るぞ」
一応礼儀としてノックをしたが、このドアは普段施錠なんてしていないし、入室が拒まれることもない。たまに着替え中だったりするときは、〝少し待ってて〟という一時待機要請があるくらいだ。
なので特に躊躇なく、そのまま玄関のときと同じようにドアを開けて中に入った。
「またか……」
そこは遮光カーテンを締め切り、一切照明のない部屋。
「起きろ、翠華」
入り口付近のスイッチをピンポイントに一発で触れ、照明をつける。暗くてももう何度も出入りした部屋なので、手を彷徨わせる必要はない。
天井に明かりが灯ると同時に、部屋の中の様子が明らかになる。奥のテラス戸は薄ピンク色のカーテンで隠され、そのすぐ横には小学生が使うような勉強机と衣服が収められたチェストが並び、それらの向かい――入り口のすぐ右手にはシングルベッドが置かれていた。
そもそも物がほとんどないので散らかっておらず、整理整頓された女子の部屋というより、最低限の持ち物だけで暮らすミニマリストのような部屋である。
正人の視線はそのベッドのほうに向かう。何かが布団の中でもっそり動くのを確認。
「う、う……ん……まぶしい……」
その何かは光から逃げるように、掛け布団を深く被る。それを見て正人は小さくため息をつくと、ベッドの前に向かい、強引にガバッと掛け布団をめくった。
「おはよう、眠り姫。ったく、夜眠れなくなるぞ」
「……んぅ……まぶしい。……あれ、正くん?」
目をこすりながら、パジャマ姿の少女は自身を見下ろす少年と視線を合わせた。
「おう、お前の幼馴染、赤土正人だ」
「正くんっ!」
正人が視界に入るなり、太ももまで伸びた黒い長髪のその少女は、起き上がってがばっと彼に抱きついた。
「うおっ!?」
ちゃんと受け止めてくれると信頼しきっているのか、全力で飛び込んできた彼女を正人は全力で受け止める。小さな幼子ならまだしも、彼女の年齢は正人より一つ年下なだけ。バランスを崩して後ろに倒れそうになるも、なんとか踏ん張って支えた。
「やっと来た……」
「悪いな。スーパーのレジが混んでて、少し遅くなった」
「ううん、責めたんじゃない。言い方悪かった」
そして常にぼんやりと半眼気味な目を正人に向け、
「来てくれただけで、幸せ」
頬を紅潮させて、微笑んだ。でも直後、少しだけ寂しそうな表情を浮かべると、
「……でも、少しだけ……寂しかった」
甘えるような声で上目遣いになる。そんな彼女の頭を、正人は優しく撫でてやった。
「もう違うだろ?」
「うん」
と再び笑顔を浮かべると、顔を胸の中に埋める。
「ねえ……いい?」
また上目遣いに、彼女は尋ねる。この〝いい?〟の前の間には、とある言葉が省略されていた。
「いつもの〝くんくん〟か?」
こくり、と顎付近まで長く垂れた前髪が揺れる。
「……ご自由に、どうぞ」
そう許可を出すと、少女はさらに顔を――特に鼻を強く押し付けた。
「すぅー……ふぅ……すぅ、はぁー……。正……くん……ふぅー……すうぅー……」
頬を紅く火照らせて、やや湿り気を帯びた生温かい息を吐きながら密着してにおいを嗅ぐ。一つ一つの呼吸をゆったり長く丁寧に繰り返した。
「正くんのにおい……」
これは高校生になれなかった引きこもりの少女――伊武翠華の〝儀式〟だった。
毎日、会うたびに最初に必ず行う。何の意味があるのか、彼女の口からはっきり聞いたことはない。しかしその安心した様子を見ていると、きっと必要な行為なのだろう。そう思うと、拒否する気にはなれなかった。
「まだ続くか?」
「……もすこし。すぅー……」
日によって細かい差はあるが、だいたい五分から十分程度、彼女が満足するまでそれは続く。いつも時間を測って行っているわけではないが、一度顔を埋めるとそれくらいは離れないのだ。
「……ふぅ、まんぞく」
やがて、そう小さく安堵に満ちた声で言うと、ようやく顔を離した。
それから彼女はベッドから降り立った。彼女の身長は百七十センチの正人より二十五センチほど低い、百四十センチ半ばといったところだ。
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