コーヒーの

春野訪花

コーヒーの揺らぎ

 閉ざされた扉を前に、大きく息を吸い込んだ。

 ぬめっとした、温い空気が肺を満たしていく。いつもより速く鼓動する心臓がうるさいくらいに動いている。宥めるように胸元を撫で付けた。

 再び息を吸って吐いて、目の前の扉を見据える。

 木製の扉は上部が丸みを帯びており、中心に取っ手がぶら下がっていた。今時珍しい、掴んで引っ張るタイプだ。

 ――この向こうに、昔別れた人がいる。

 強く鼓動する心臓に急かされるように、足がその場から離れようとする。ここまで来ておいて、引き返すのか。

「…………」

 ひとつ唾を飲み込んで、取っ手に手をかけた。

 何度目かも分からない深呼吸し、思い切って扉を開ける。力み過ぎていたらしく、あまりにもあっさりと、軽く扉は開いた。

「いらっしゃいませ」

 耳当たりの良い、爽やかな声に出迎えられる。カウンターの向こうに、こちらに近づいてくる人を見て、まるで走馬灯のように記憶が脳裏を駆け巡った。

 ――最後にその姿を見たのは三年くらい前。今にも泣きそうに目尻を下げて、目一杯に笑って見せていた。『ごめん』と謝るその言葉を、何度思い出し、何度様々な可能性を考えたか。

 今目の前の彼は、私と出会ったばかりの頃みたいな笑顔を浮かべていた。私だと気づいているならもっと反応があるだろう。どんな反応をされるか考えながらここに来たのに。

 もう、私のことなど忘れたのだろうか。

 拍子抜けするし、忘れられているのはそれはそれでもムッともするが……。

 コーヒーの香りが鼻孔を撫でた。

 これはこれで、良かったかもしれない。忘れてても、それでも。

 店内はそれなりに混んでいた。扉を開けて目の前に階段があったが、二階はすでに満席らしい。カウンターになると言われてどきりとしたが、まあいいかと、軽く了承した。

 人が並ぶカウンターを通り、奥の席へ。そこはちょうど目の前にコンロがあり、ケトルが湯気を立てていた。

「こちらメニューでございます」

 当時の彼では想像もつかないほど柔らかな物腰だ。人は変わるというが、彼は何があってこうなったのだろう。「何が」の一端は、私でもあるだろうけども。

 メニューにはコーヒーやケーキ、軽食など、カフェらしいものが並んでいた。その中でおススメと書かれたコーヒーを頼む。

「かしこまりました」

 柔らかく、胸にすっと入ってくるような大人びた笑み。――こんな顔もできる人なんだ。

 目の前で彼がコーヒーを淹れ始める。挽いた豆を、濾し器へ。それをカップの上に当て、お湯をゆっくりと、濾し器を回しながら注ぎ入れていく。

 彼ばかり見てしまう瞳を宥め、周囲を見渡す。

 お客さんたちの談笑と、穏やかなジャズが流れている。狭目な店内だが圧迫感はない。彼の背後の棚にたくさんのカップが並んでいる。滲み広がるような、しっとりとした花が描かれたものだ。

 彼らしい装い。だけど、取り扱うのは、彼が苦手だったコーヒー。――時が経つというのは、こういうことなのかもしれない。

「お待たせいたしました。こちら、『華やぎ』でございます」

 ありがとうございます、と軽く笑んで返す。彼は会釈を返して、客に呼ばれて去っていった。

 一人残されて、手元に視線を落とす。カップに添えられた、砂糖と牛乳が入った小瓶が二つ。それを使って、ほんの少し甘いコーヒーに仕立て上げる。黒と白。入り混じって茶色。かちゃり、と音を立ててカップを持ち上げた。ふわりと広がり上る湯気は、ゆらりゆらりと宙に消えていく。

 唇に触れたカップは温められていて、とても大切にしているなと思った。コーヒーを。

「――美味しい……」

 苦味より酸味の強い味わい。コーヒーは刺激が強いものだけど、これは違う。とても……優しい。『華やぎ』と名がつくだけあって、香りが立っている。花が開くように、軽く、しかし力強く。

「…………」

 コーヒーの淹れ方は詳しくないけど、難しいということは知っている。こういった飲み物は繊細なのだ。

 僅かにだけ口に運ぶよう、カップを動かす。じっくりと味わいたくて。

 気がつけば、目の前に彼が立ってコーヒーを淹れていた。

 どうしてコーヒーを淹れるようになったのか、柔らかな笑みを浮かべるようになったのか――。確かめるすべはない。

 彼が一瞬こちらに視線を向け、目が合って――微笑んだ。昔、一緒にいた頃、見たことがない、笑顔で。

 あっ……。


 笑った時の目尻のしわだけは、変わってない。


 かちゃり、とカップを置いた。茶色のコーヒーが揺れている。

 彼のこれまでを、変わった理由を、確かめるすべはない。だけど……ここに来て良かった。

 揺れが止まったコーヒーに、私の笑みが映っている。

「とても、美味しいです」

 彼は目尻のしわを深めた。

「ありがとうございます」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

コーヒーの 春野訪花 @harunohouka

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

同じコレクションの次の小説