第6話


  広い部屋であった。

  白檀の香りが僅かに漂っている。

  武具と防具が無造作に置かれ、豪奢で大きな寝台が一際目を引く。そこからむくりと起き上がる人影がある。

  無造作に髪は解かれ、武具を脱ぎ薄絹を羽織っているだけだったが、それは嶺王であった。未椰は心の臓が凍えるのを感じた。けれど、不思議と感情は穏やかだった。おどろくほどに何も感じない。苑を殺め国を滅ぼした男だというのに、こうして目の前にしてみると、憎悪も嫌悪も沸かない自分自身が不思議である。

「よく来たな、未椰。瀞、下がって良いぞ」

  嶺に言われて瀞は何か言いたげに口を開いたが、退室しろと視線で示されると、結局何も言わずに部屋から出て行った。

  一人部屋に残された未椰は、すう、と息を吸い込む。嶺の姿をじっと見つめた。

  戦場で会ったときは、血にまみれた鎧と皮膚とで鬼神か何かのように見えたものだが、こうして武装を解いている姿を見るとやはり唯の人である。

  しかし威圧的な視線には柔らかさなど微塵も無く、鍛えられあげた体躯もまた然り。武王とはきっとこの方のような人を言うのだろうと思う。

  武器など無くても簡単に自分のことなど縊り殺せるに違いない。

「気分はどうだ?」

「別段変わりなく」

  未椰は目を伏せる。

  嶺は表情を変えることなく、こちらから視線を逸らした未椰を覗き込んだ。

  嶺にとってまともな戦はこれが始めてだった。つまりは、未椰は嶺の初めて目にする敗軍の軍師ということになる。

  初陣だったが完璧な勝利、といえる。なんと気分の良い事だろう。しかし想像していた以上には心は動くことが無かった。勝利は当然であると思えるほど、苑の軍は脆弱に過ぎた。

  気を静めるために女を抱き、体を休めたのが数刻前。

  戦の疲れなど残っておらず、興奮ももう収まった。己がまだ若いからだろうと、嶺は思う。老いてしまえばこうはいかない。

 時というものは有限であり、平等である。老いた自分など想像もできないが、焦りのようなものは常に感じている。

「俺が憎いか?殺したい、か」

「……いいえ」

「隠さなくとも良い。そう思っていようと別に構わん」

「いいえ」

  嶺が言うような感情は、何故か未椰には湧き上がってこない。

  主を殺めた男である。どうして、と、思う。未椰は己自身戸惑うほど冷静であったし、落ち着いていた。現実を受け入れていないわけでは決して無い。

  だから余計男に対する感情が何ら無いといっても過言ではない自分が、分からない。疲弊しているのかもしれない。

  憎しみや怒りは大きな感情の動きである。それすら出来ないほど疲れている、のだろうか。

「憎い相手を噛み殺すほどの覇気もないか。つまらん。お前は苑の情婦だったのだろう」

「そういったものではございません。嶺王には申し上げました通り、私は尼僧でございます」

「まぁ、どうでもいい。俺がお前に欲しているのは、知恵だ。未椰」

「……知恵と、言いますと」

  嶺は寝台を降り、床に膝をついている未椰の正面までやって来る。

  未椰と視線を合わせるためにしゃがみ込むと、嶺は内密事を話すような声色で言う。

「次はりゅうだ。琉を落とせば、そうに手が届く」

「嶺王は、天を掴むおつもりでいらっしゃるのですか」

「愚かな事を聞くな、未椰。何のためにお前を手に入れたと思っている」

 嶺は、嘲るように言った。

  無論未椰とて感づいてはいた事であるが、確かめずには居られなかったのである。

  琉と言えば、この国の南西に位置する大国であり、かつて沁王が天下を支配していたときにも、唯一対当に扱われていた国である。それだけ王とまた配下の将たちが優れていた、ということであろう。

  いくら嶺の力が人間離れしているとはいえ、それは嶺一人の事である。戦は一人でするものではない。確かに嶺は苑に勝ったが、それは苑国が弱小であった、というだけの話だ。

  正面からぶつかれば、確実にあの大国に押しつぶされるだけである。

  未椰はほんの一瞬、眉を潜めた。

  それで、知恵、か。

  考えるまでも無い事であった。それに気づくのに僅か遠回りしたのは、未だ思考が薄暗闇の中にあるからかもしれない。

  気づいた途端未椰の頭の中には琉国の地図が浮かんだ。

  点在する城塞、それから王都は丁度国の中心にある。

  琉はあまり豊かな土地ではない。山脈が連なり自然の砦を築いているが、それ故作物を育てるには不向きだ。その代わりに鉄が取れる。そして足腰の強い屈強な兵達、山脈を駆けることの出来る恐ろしい騎馬隊が居る。

 それだけではない。

  沁王の敷いた恐怖による支配を乗り越えてきた将達の結束は強固であり、一人一人が優れている。

  琉とは、攻め入る隙の無い国。

  それに一体どう立ち向かえと言うのか。

「……冬ですね」

「冬?」

  答えたくなど無かったが、ここでそれを拒否する事が出来るほどの気力は未椰にはもう残っていなかった。投げやりの様な気分で、頭の中に構築された策を紡ぐ。

  しかしそれは言葉だけだ。文字通り机上の空論に過ぎず、実際にどう転ぶかは分からない。嶺王の軍の力量を把握していないのだから、不確定要素だらけである。

 だとしても別に良い。勝とうが負けようが、未椰にとっては大きな違いなどない。

「ええ。元より琉は作物が取れない土地にあります。備蓄はあるのでしょうが、戦が起こればすぐに食い潰されましょう。それが冬ならば、余計に」

  嶺の瞳が興味深げに輝く。

「そして琉には雪が降ります。琉の恐ろしさは山地をも駆ける事の出来る騎馬隊にありますが、雪の中ではそうはいきません。山地での戦は此方は不慣れ。あちらの機動力を削いだらあとは只管に武力のみの力比べとなります。加えてあの地形では大群は動かせない。少数精鋭の戦においては、嶺王は自信がおありでしょう?」

「あぁ、俺に叶うものなど居るまい」

「先ず、第一手は、桂林けいりんに」

  桂林は、琉と湊の境に位置する街であり、軍を向かわせるには少し遠い。

  攻め入るのならば一番近い理凛りりんからが帝石なのだろう、本来ならば。

「桂林、か」

  嶺の言葉の中に含んでいる不信感に気づき、未椰は説明を加える。

「桂林は、琉と奏との交易の商業都市。ですが、沁王が倒れ、湊王が起ってからというもの、琉と湊は不仲にあります。琉は支配下から独立を果たしましたが、沁王亡き後遺物である広大な土地を手に入れようと画策していたところ、湊という男に先を越されたわけだから面白い訳がない。加えて、作物の取れない土地柄から、どうしても湊に頼る事になる。苛立ちは自然と態度に出るものです。湊は湊で、何れは自国に攻め入ろうという魂胆が見えている相手に、何故食料を与えなければならないのかと、まぁ当然の事ですが、交戦を主張する者が多い。どちらがどちらに攻め入ろうとおかしくないほど状況は切迫しております」

「苑とは戦とは縁遠い男だっただろう。お前は詳しすぎる」

「……苑のような小国を守るには、他国の状況を知るのは必要不可欠なことでありましたから」

 しかし守りきれなかった、と、未椰は心の中で付け加える。

「桂林は、囮です。桂林に攻め込ませる部隊には旗をつけず、また湊の特徴である赤い兜鎧を付けさせます。琉は、湊が攻め入ってきたと思い込む事でしょう。琉の目が桂林に向いたところで、主力部隊は理凛に攻入ります」

「湊が気づいたら、どうする?」

「別に湊の旗を掲げたわけではないのです。叱責を受ける謂れはございません。そして、湊が我が軍に便乗して琉に攻入る可能性は、低い」

「自国未だ落ち着かず、か」

「はい。それに加え、目障りな琉が侵略されたとしても、奏は喜びこそすれ助力などする筈もありません」

 嶺は酷く嬉しそうな笑みを浮かべた。

 未椰が、その優秀さが愛しくてたまらないという笑みだ。

 未椰はその事に怖気を覚える。

「冬まで、まだ時がある」

「それまでは、戦の準備と致しましょう」

 嶺は頷いた。それから、初めて気づいたように未椰の姿を上から下まで眺める。

「今日は冷えるな」

「嵐でございますから。もうじき、秋がくるのでしょうね」

「未椰、お前はわが国の軍師だ。部屋と、従者を与えよう」

「………私は、何も要りません。囚人は牢獄にでも、入れて下さいませ」

 未椰はそう言って目を伏せると、退室を許されるのを待った。

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