第5話
此方に近づいてくる足音が耳に響き、未椰は目を閉じてその到着を待つ。
只管受身でいることは、とても楽ではあったし、なんだかとても疲れていたので寧ろ有難いとさえ思う。
「未椰」
聞き慣れない男の声が鼓膜を震わせた。
それは、兵にしては細く、多分自分と同じ文官かと思われる男だった。どこかその印象は冷たい。感情を殺しているようではあるが、視線の奥に此方を蔑むような、見下すような鋭さがある。
「……
「王の面前に、このような格好で参上する訳には参りません」
「お前はただの虜囚だ。弁えろ」
苛立ちを抑えきれないような口調で男は言うと、「さっさと来い」と命令する。
未椰は仕方なく起き上がる。髪を撫で付けることもせずに男の後に従った。
(……そうか、私はそのような立場なのか)
男の言葉を噛み砕き飲み込み理解する。戦に負けたのだ。苑王は、目の前で死んだ。
それにしても、肌寒い。
「まさか、お前が女だったとはな。炎に捲かれてしまえば良かったものを生き延びるとは、悪運の強い事だ」
不意に耳に触れた言葉を理解するのに時間を要した。
――死んでしまえばよかった?
無論今まで生きてきた中で、誰かに疎まれていると感じることはあった。だが直接的な分かりやすく単純な悪意など向けられたことなど一度も無かった。
それ故男が自分に向けて言った言葉が、たとえば何かの象徴かただの音の響きのように感じられて、未椰は訝し気に眉根を寄せた。
「苑が死に、我が王に帰順するか? 主など誰でも良いということか。娼妓と変わらんな」
「目障りだ」と男は言う。
特に腹も立たなければ返す言葉など無い。その通りだと思う。それと同時に、何故男の悪意に対して自分が驚いてしまったのか納得して、未椰は目を細めた。
未椰は形だけだが尼僧であった。尼寺でただ食って寝ていただけではない。それなりに修行を行い、戦乱が起こるだろう予測に対する恐怖を克服した。そしてそのついでに、憎しみや怒りなど捨てたつもりで居た。心の揺らぎなど捨てたつもりで居た。
しかしそれは下界から隔絶された寺院の中では至極簡単なことであり、そもそも心を動かすものなどが殆ど無かったのだから、寧ろより不慣れであると言っても過言ではない。
苑の元に居ても、あまり状況が変わることは無かった。
地位も後ろ盾も無いまして女である自分などが、王の側近である事に腹を立てていた重臣はさぞ多かったことだろう。
しかし未椰は左程それを感じたことが無かった。
思えば苑は過剰なほどに未椰を褒めたたえてくれていた。そして何もできない王であると笑いながら言っていた。家臣たちは、「本当にその通りだ」といって、未椰の過労を心配してくれていたぐらいだ。
きっと苑は、守ってくれていたのだろう。
今にしてそれを理解する。
微温湯につかっていた。
苑の元に居たときは気づくことも、まして一言感謝を伝えることもできなかった。
「……」
なんと、罪深いことか。
「返す言葉も無いか。ならば、さっさと自害しろ。これ以上醜態を晒すな」
男は本心半分挑発のつもりもあったのだろう、表情も変えず黙り込んでいる未椰の態度に尚更苛立ったようであった。
未椰は苑の姿を思い出そうとする、在りし日の記憶を辿ろうとする自分を叱咤した。
あの優しい王を心に留める資格など、無い。
孤独であった。王を無くし、祖国を無くし、全てを無くしてしまった。
今の自分は寄る瀬の無い櫂を無くした小船だ。否、笹舟、か。
流されて生きるよりほかは、どうすることもできない。
寒い。
未椰はぼんやりと回廊から続く中庭を眺める。
先ほどよりあたりは薄暗くなっている。時折空を引き裂くように雷鳴が響き、それに応じるように雨脚が強まっている。風は、無い。
男の背中を見据える。あぁ。そうか。
――この男は、何かを恐れている。
何を?
何も考えたくない。にも関わらず、頭の隅に冴え冴えとした部分がある。男がなぜ自分に憎しみを向けるのかを考える。それは恐らく嶺の関心が私に向くのを恐れているからだ。――軍師、か。
小さく笑った。
「何がおかしい」
「いえ、何も」
「言え」
男に睨まれて、未椰は口を開く。
「男の嫉妬とは、大層可愛らしいことだと思いましたので」
「貴様……!」
「貴方は、嶺王の軍師。名前は、
男は一瞬言葉に詰まった様子で、喉を鳴らした。
当たりかと、未椰は思う。嬉しくもなんともない。
瀞を痛めつける言葉を未椰は沢山知っていた。しかしそれは無駄なことだと思い、黙っていることを選んだ。男を追い詰めたところで何が変わるわけでもない。
それ以上瀞は何も言わなかった。
未椰も話すつもりはなかったので、黙々と足を進める。
どこをどう歩いたのか一つも思い出せないが、城の奥まで入り込んでいるようであった。
正面に見える扉の前に、帯刀した屈強そうな男が立っている。
城の中で帯刀していいのは、王とその護衛兵ぐらいものだ。少なくとも苑国ではそうだった。だとしたらここは王の居室に他ならない。
考えたくも無いのに、扉を開くよりも先にそんな事に思いを巡らせ背筋が凍った。
嶺王に面会することは分かりきっていたのだが、まさか居室に案内されるとは思っていなかったのである。
「通せ」
男が護衛兵と思しき扉番に告げると、扉番はすんなりと扉を開いた。
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