揺蕩う小舟

第4話

 


『あぁ、未椰みや今年は梅がとても綺麗に咲いたんだ』

  まだ少し雪の残る中庭に、紅梅が見事に咲いていた。

  蓬色の着物の上から黒い綿入りを着込んで中庭に下りていた苑王えんおうが、此方の気配に気づきくるりと振り向くと、それはそれは嬉しそうに微笑んだ。

  未椰は思わずつられて微笑みながら、手招きされたので中庭に下りる。

『ええ、そうですね。まだ寒いのに気の早いことです』

『せっかちなんだな。お前と同じだ』

  笑いながら、苑が言う。

  未椰は小さく溜息をついた。

  苑は、政も軍事に対してもまるで才覚が無く、どれほど大切な話をしても結局『さっぱりわからん、任せる』といって、逃げてしまうような王だった。国を治めるための重要な事柄を全て未椰に押し付けて、自分は日がな一日花を愛でたり飼い犬と遊んだりしている。

  未椰は王に文官として招かれたとき、当たり前だが王政を殆どを一手に任されるとは思っていなかった。

 その責任と負担の重さに、魂が抜けそうになったこともあった。しかし未椰が音をあげそうになる度、苑に拝み倒されてしまい、仕方なしに現状に落ち着いてしまっている。

  無論、初めは断った。

  招致を受けた時に未椰は、山奥の尼寺で静かに暮らしていた。

  信仰心が篤いという訳ではない。寺院の門を叩いた理由は、町の中で、人の中で暮らすのに嫌気がさしたというだけだった。

  人の中にいると、雑音が過ぎる。考えなくても、人の心や、国の行く末が何とはなくわかってしまう。物心ついたときからそうだった。

  幼いころはただ書物をよく読み、その内容をすぐ覚えてしまう、というだけだった。しかしそんな特技は女には何の意味もないことだ。子を成し耕すのが女の仕事であった。本当は未椰も、それだけでよかった。

  けれどわかってしまうのだ。相手の思いの一手も二手も先が。それは国同士も同じであった。国とは、人だ。やがて戦乱が訪れる。

  それに気づいたとき、夜も眠れなくなるほどに恐怖した。それを抱えながら生きる程強くはなれなかった。かといって耳を塞いで生きることもできなかった。だから、尼僧になった。

  苑王がどこから聞きつけて自分のもとに来たのかは知らない。

  だが熱心に乞われては肯かないわけにはいかない。王の頼みを拒絶できるような身分ではない。のらりくらりと返事を先送りにしていたが、尼寺の庵主様が「もう庇いきれません。それに、あなたの務めなのでしょう」というので、結局未椰は嫌々ながらも王城に行くしかなかった。

  自分が優れているとは思わない。

  でも確かに苑の有様を見れば、彼に任せていてはこの国は潰れてしまうだろうということは理解できる。

  まるでやる気のない風を装っている苑だが、政治や軍事に関心が無いわけでもまして無責任なわけでもなく、彼はただ自分自身にそういった才覚が無いことを十分理解していた。

  だから余計な口を挟まず、「飾りばかりの王だ」と自虐でもなんでもなく、あっさりと言ってのける。

 それが苑王という人だった。

『……本来ならば、私は山奥の庵で静かに本でも読んで暮らしたいのですよ』

『そんな事を言わないでくれ。お前がいなくなったらこの国はとたんに倒れてしまう』

  苑がとても困ったようにそう言うので、未椰は肩を震わせ笑った。

『逃げ出したりは致しませんよ。ご安心ください』

『そうかそうか、それは良かった』

『もう少し、苑王が政務に励んでくださると、嬉しいのですけれどね』

  本来の目的であった小言を話のついでに言うと、苑は苦笑し「分かった分かった」とどこまで分かっているのか首を傾げたくなるような口調で言う。

  やけに寒い。鼻先に冷たいものが当たったと思ったら、ちらほらと雪が降り出していた。

  お前が風邪でも引いて倒れたら一大事だと、苑は未椰を追い立てるようにして中庭から退散する。

  未椰は見慣れた回廊を、苑の背中を見ながら歩く。

  そして、歩きながら考える。

  耳元で、ざあざあと雨粒が地上にぶつかる音が響いている。

  これは。

  夢、だろうか。

  どちらが、夢だろうか。


「……、」

 深い水底から、ゆっくりと浮上するように目を覚ました。

  ぱちりと瞼を開くと、目じりから耳にかけてどうにも熱い。もしかしたら泣いていたのかもしれないが、そんな悲しいことは何も無かった筈だと、眉を潜める。

  板張りの広い部屋に、布団が敷かれていた。暫く蛹の様に動かないでいたが、もう眠れそうにも無かったので体を起こすと、鳩尾の辺りがずきりと痛む。

  縁側が黒く湿っている。空は薄暗い。互いの体を飲み込んで大きく膨らんだ雨雲から、ばらばらと雨が落ちている。雨粒が縁側も質の良い庭の灯篭も、黒く染めていた。

  未椰は上半身を起こしたまま、暫くその光景を眺める。

  結っていた筈の髪は解かれ、背や肩に掛かっていた。血に汚れていた着物は、見慣れない物へと取り替えられていた。

  体からは、もう、戦場の匂いはしない。

  けれど、すでにもう通り過ぎてしまった過去が、変わる訳ではない。

  やや肌寒さを感じ、枕元に置かれていた藍染の羽織りに袖を通す。何故だか、寒いと感じることが、どこか間違っているような気がした。


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