第2話
城下町を通り過ぎ、城門まで戻る間に、嶺に気づく者は一人としていなかった。
民が王の姿を見ることは殆ど無い。見知っていたとしても、一人で城下をうろついているとはまず思わない。嶺は父に幼いころ城下の監察という職務を与えられていたため、城下を見回ていたが、嶺が若君である、とは誰も知らず、交流があったとしても今の嶺の姿を見て同一人物だと思う人間は居ないことだろう。
青年期の変化は激しいというが、嶺の場合それは人並み以上に顕著だった。どちらかといえば小柄だった体は逞しく成長し、顔つきも時が経つにつれ性質と同じように苛烈さを表すようになった。それに今は、街に溶け込む必要があった過去とは違い、飾り気は無いが身形の良い服に身を包んでいる。
王の顔など、民の生活にとっては無関係のものだ。彼らの関心は、新王が厳しい徴収を行わず、平和で安全な暮らしの保障をしてくれるか否か、それだけである。
城門を潜ると、正面入り口の円柱の柱に凭れ掛っている顔見知りの姿が目に入る。
嶺は下馬すると馬番に黒陽を任せ、勝手知ったる城の中に足を進めた。柱から背を離して、顔見知りの男が何か言いたげに此方を見ていたが、視線も向けずに目の前を通り過ぎると、彼は一歩後ろをぴたりとついて歩いてくる。
「嶺様、どちらへ行かれていたんですか?」
男はあまり抑揚の無い声でそう言った。
「態々出迎えか、
瀞、と呼ばれた青年は、ほんの一瞬眉根を寄せる。
「また護衛も連れずに遠乗りに出かけてしまったので、心配していましたよ」
「俺よりか弱い護衛など、足手纏いにしかならん」
「しかし、盾ぐらいにならば役に立ちます」
「まったく、口喧しい事だ」
瀞は、深いため息をひとつつく。
主がついて来るなと言いたげな視線をよこしたが、それに構わずに共に政務室の扉を潜ると、嶺の為に椅子を引いてやった。
嶺はどかりとそれに座り、机に積んであった書簡に視線を向ける。
「それは、今日中に目を通していただきたい物です」
「民政など、お前が適当にやっておけ」
「そういうわけにもいきません」
「別に俺がそれで良いと言っている」
「嶺様はもう、若君ではないのです。王としての自覚を持って頂きたい」
瀞は、嶺の幼馴染にあたり、数多の文官の筆頭を務めている。
城内の人間たちの殆どが嶺を恐れ、その顔色を伺いまともに意見もできない状態であるが、その関係の気安さと、さらに言えば民政になどまるで興味の無い嶺に変わり、瀞が全てを仕切っている事による立場上の親密さから、瀞の言葉には遠慮がない。
「本当に煩いな、お前は」
「何と言われても結構です」
嶺は舌打ちでもつきそうな勢いで表情を歪めながらも、書簡に手を伸ばした。
適当に文字を追いながら適当に印を押す。内容など初めから興味は無い。
「それで、どちらに行かれていたんですか?」
「国境を見てきた」
「
「あぁ。あれは、潰す」
書簡に印を押しながら、さらりと嶺は言う。
嶺の苑国へのこだわりは、ごく最近始まったものだ。
それが何故なのか知っている瀞は、複雑そうに表情を歪めた。
何か言おうと口を開きかけて、それから一度唇を閉じる。小さく首を振ると、軍師としての仮面を被り直す。
「軍を出すぞ、瀞。抵抗する気など起きないほど、圧倒的な力の差を見せ付けてやる」
今にも一軍を率いて飛び出していきそうな嶺を落ちつ差せるように、瀞はゆっくりとした口調で答えた。
「心得ました。しかし、あと数日お待ちください」
「何故だ」
「厳密に言えば、あと五日。五日後に河の水位は最も低くなります。騎馬にて十二分に越えられるかと。ここ数年、俺はあの憎たらしい河の測量をしてきました。これはあて推量ではなく、計算に基づいた事実です」
瀞は、嶺の事を良く知っていた。
即位後は必ず、苑国に攻め込むだろうと見越していたために、行ってきた行動である。しかし、そこに私情が挟まれるとは思っていなかった。
妙に、心がざわつく。
「先鋒は誰に任せましょうか」
「俺が出る」
「王自らが先陣を切るなどと……、蛮人の戦です。自重なさりませ」
「瀞。俺が行かなければ意味が無いのだ。自らあの国を滅ぼしてこそ、あれは俺に従う気になるだろう」
あれ。
あれとは、苑王の臣下である、一人の軍師の事を指す。
苑王は、王としては愚鈍だ。しかし周りを大国に囲まれ常に侵略の憂き目に合わされても尚、無事で居るのは、優れた軍師を囲っているからである。
それは風の噂となり嶺の耳に入るほどだ。よほど有能なのだろう。この世に二つと無い才、らしい。
その話を耳にしてから、嶺はそれが欲しくて仕方なくなった。一度書簡を送ってみたが、自分は苑に忠誠を誓っている、という、丁寧な返事が返ってきただけであった。
隣国の王に対する礼も忘れず、それでも自分の意思を貫き通す、心地の良い文章だった。しかしそれは、嶺の胸の炎をさらに激しくさせたに過ぎない。
元々嶺は自分に従わない人間は大嫌いであり、それが有能であったら尚更の話だ。
あれの――
「出立は四日後の夜半。苑国の者は、未椰を残し皆殺しにする。女子供であろうと、一人残らずな。それが、俺に逆らうという意味だと、教えてやる必要がある」
「仰せのままに」
瀞が頷くと、嶺はもう下がって良いと、視線で示した。
瀞は示されたとおり、立礼をした後、政務室から出て行く。
印を押された書簡を持ちながら、己の部屋へ向かう最中、ふと足を止めると壁を殴りつけた。
激しい痛みと共に、いくらか頭の中がはっきりしてくる。
姿も見たことの無い未椰という人物に、憎しみすら感じる。嶺の言動は、まるで自分では足りないと言われているようであった。
自分は、王の役には立っていないのだろうか。
そんな思いに囚われ、絶望的な気分になる。
王の力になることこそ、己の存在意義だというのに。
瀞は唇を噛む。無駄な、感情だ。自嘲し、気を取り直して顔を上げると、目の前に
千華は、腕を組み、値踏みするようにこちらを見ている。
今の姿を見られてしまったのではないかと瀞は恥じ、感情を押し殺した目で千華を見上げる。
千華は、嶺が城下より取り立てた一隊を率いる武将であった。
元々は遊郭で用心棒のような事をしていたらしいが、千華は、良家の出自である。嶺の父の代より更に古くより、王に仕えていた由緒正しい血筋の者だ。
瀞の生家は、もう無い。過去、王に反旗を翻したために皆殺しにされていた。だから瀞には、後ろ盾が居ない。
そんな瀞に、千華の姉の
一人きりで生きる瀞を哀れに思ったのかもしれないし、文官として民政に成果を挙げたことに対する褒美のつもりかもしれなかった。
瀞は所帯をもつ気など更々無かったのだが、王の好意である。無論、断れるはずは無かった。
しかしそれは結果的には良かったのではないかと、今は思っている。泉は、少しばかり年が上であるが、美しく優しく、気丈で、素晴らしい人だ。感情の表現が苦手で、優しい言葉をかけるでもなく、政務に忙しくあまり家に帰ってこない自分に対して、恨み言一つ言った例が無い。常に家を清潔にし、家計の支えになるようにと内職などをしながら、 唐突に帰ってくる瀞を笑顔で待っていてくれている。自分には、過ぎた、妻だと思う。
しかし、千華の存在だけが、どうにも自分を困惑させる。
きっと千華は、姉が取られて悔しいのだろう。
「こんにちは、兄上」
「千華。何か用か」
「ええ。何か、ありましたか?顔色が悪いようだ」
伸ばされた無骨な手が、額に触れる。
瀞は無感動にそれを受け入れると、千華から視線を逸らす。
何も答えずに足早に自分の部屋に入ると、千華が遅れて扉を潜り、後ろ手に扉を閉めた。
瀞は大切な書簡を棚にしまうと、近づいてくる千華の足音を、憂鬱に耳にしていた。
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