第2話 美侑、覚醒

 美侑はそろりそろりと手をタッパーに近づけた。

 ここに入っているのは吸血鬼の血だ。仇敵の血だ。

 そんなものに頼らなければ魔法使いになれないなんて……。


(でも、そんなのは関係ない。これを使わなければ魔法を使えるようにはならない……!)

 美侑はぎゅっと目を閉じた。

(思い出せ。忘れるな。あの日を。何のために魔法の力が欲しいのかを)


「……美侑、大丈夫?やっぱり止めた方が」

「大丈夫」

 美侑の手が止まったからか、レイランが遠慮がちに声をかけてきた。美侑はその言葉が終わらないうちに首を振る。

「ただ、ちょっと……感傷に浸ってただけ。問題ないよ」

 そして、改めてタッパーに手を伸ばした。


 指先と血の接触に、音はなかった。

 指先からゆっくりと、吸血鬼の血が触れていく。掌全体が血に接触するまで、大した時間は必要なかった。

 そして、掌全体が触れた直後。


 美侑は、自分の中で何かが「変わった」ことを知覚した。体全体に一気に熱が伝わっていく。

「……っ!」

「手を抜いて!」

 美侑の反応で、レイランは何かが起きたことを察したのだろう。手を抜けと言いながら、美侑の手を自分でタッパーから引き上げた。


「レイラン、今の感覚って……」

 あまりの熱さで美侑はくらくらしている。レイランに引き上げてもらわなかったら、自分でタッパーから手を抜くのは無理だっただろう。

「ちょっと待って、それは後。まずはこれをどうにかしないと」


 やっぱりこの血は危ないね、と呟きながら、レイランが魔法を起動した。タッパーに入った血が空中に浮き上がり、3つの塊に分けられ、3本の試験管に収納される。タッパーには一滴の血も残っていない。

 魔法で試験管の栓まで閉めて、ようやくレイランは美侑を見た。


「美侑、今の術式、見えたりした?」

「術式……?」

 美侑は首をかしげた。レイランが魔法を使った時に、陽炎のようなものが見えた気はしたが、まさかあれが魔法を使うための術式ではあるまい。美侑だって身内に魔法使いがいるので、紙にペンで描かれた術式は見慣れているのだ。

「じゃあ、私の手の上、何か見える?」

 今度はレイランが右手を出して尋ねた。美侑は目を凝らす。


 ゆらゆら。後ろに映る風景が揺れている。レイランの手の上、直系5センチくらいの円形に、陽炎のようなものが見えている。


「なんか、円形の陽炎みたいなのが見える……」

 美侑が答えると、レイランは頷いた。

「『視えてる』ね。じゃあ、これでいいのかな」

 レイランは1人で納得しているが、美侑にはさっぱりわからない。


「美侑、私の手の上に出したのはね、《魔弾》だよ」

 《魔弾》。最も単純な攻撃魔法にして、魔力の塊。———そして、人間には魔力は視認できないはず。

 ということは、つまり。


「私、魔法使いに……なれた?」


「そういうことだね」

 見れば、レイランはにこにこと笑っている。

「陽炎でも、それは魔力が見えてるってことだから。魔力が見えるのは、魔法使いになった証拠。

 術式は……まあ、慣れないと見えないと思うから、そこは心配しなくていいよ」


 魔力が普通の人間には見えないのと同様に、魔力によって形作られる術式もまた、普通の人間には見えない。そして、術式は基本、細かい文字と線によって成り立つ図案だ。魔力を陽炎でしか捉えることのできない美侑の目には、術式の細部まで見えるわけがなかった。


「美侑が無事に魔法使いになれて、良かったよ。見たところ吸血鬼化もしてないし。

 事務室はまだ開いてると思うけど、今から説明しに行って、転科届も出す?」

「……いや、今日はいいかな」

 レイランに訊かれたが、美侑は首を振った。

「魔法科のカリキュラムが詰まってるのは知ってる。けど、さすがにこの時間に行くのは申し訳ないというか……。もう6時になるでしょ?」

「うん。今、ちょうど6時を過ぎたところだね」

「じゃあ、やっぱり今日じゃなくていいよ」

 美侑は言った。


「明日の昼休みに行って、手続きしてくる。魔法科に行くとなったら、いくつか検査はしないといけないだろうし……」

 体が「変わった」時の熱で、まだぼうっとしている。そんな状態で手続きも検査もしたくない。

「最低でも、魔力が見えるかどうかは検査があると思うよ。まあ、美侑の運動神経なら運動能力の試験は免除されるだろうし、魔法関係の学力テストも免除されそうだけど」

 レイランが苦笑した。

 彼女の言う通り、美侑の運動能力は高い方に分類される。いつか魔法使いになる日のためにと、中学生の時から魔法についてもしっかり勉強していたため、そちらについても問題ない。


「そもそも、まだ5月だからね。討伐部隊の訓練をする前に、みんなの魔力を制御しないといけなくて、魔法関係の授業はほとんど進んでいないから、試験をする意味もないけれど」

「魔力の……制御?」

「そう。美侑は、魔法使いに覚醒することの意味は知ってるよね?」

「魔法使いへの覚醒は、体内の魔力を自分の意思で使えるということ」

 美侑は素早く答えを返す。

「その通り。そして、『魔力を自分の意思で使える』ということは、ある程度魔力が自分で制御できるということでもあるの。

 先天的な魔法使いは、生まれた時から自分の魔力と付き合って生きてるから、高校生にもなれば自分の魔力はほぼ制御できる。でも、後天的な魔法使いはそうはいかない。……仕方ないことだけどね」

 レイランはため息をついた。


 魔法学園が抱える矛盾の1つは、ここにある。討伐部隊の訓練校でありながら、最初から魔力の制御ができている者とそうでない者の足並みを揃わせるために、夏休み前まではほとんど訓練を行わないという、魔力制御できている者にとってはほぼ実りのない期間。

 確かに「人に教える」ということで上達はするかもしれないが、レイランたちから見て、後天的な魔法使いの生徒たちが四苦八苦しているのは、物心ついた時にはほとんど自然にできていたことだ。「教える」というものではない。———というかむしろ、それができていなければ、先天的な魔法使いは生きられないとも言うが。

 4月から授業を始めて、未だに生徒が苦労しているのは、魔法使いなら誰もが持っている魔力タンクの《栓》の開閉方法なのだから。



 魔力とは魔法を使うためのエネルギーだが、それ以前に生命のエネルギーであり、体に備わる魔力タンクから全て流れ出してしまえば死に至る。

 ゆえに、先天的な魔法使いは、幼い頃に命の危機感を覚えて、自分でもわからないうちに、ほぼ完璧に《栓》を開閉する方法を覚えてしまうのだ。彼らにとってそれは、ものを食べたり、何かを見たり聞いたりするのとほぼ同じ。……それを教えろと言われても、若干無理がある。


 というわけで、この時期の魔法実技の授業において、レイランたちは大変暇なのだ。できるのは、クラスメートから魔力が漏れ出ていないか確認して、生命の危機にあると判断した場合は自分の魔力で《栓》を塞ぐか、術式で強制的に《栓》を閉じるくらいである。もっとも、他人の魔力タンクに干渉するのは高等技術で、そんな芸当ができる生徒もほとんどいないから、本当に暇なのだけれど。

 あまりに暇すぎて、最近では数名が授業をボイコットして、図書館の魔法書エリアに籠っている。レイランとしてもその方が絶対に有益だと思う。


 というかそもそも、高校生にもなれば、レイランのように名家の家系の魔法使いは、半分近くが吸血鬼と戦ったことがある。そうでなくとも、家の人間との模擬戦くらいは普通にこなしている。そんな生徒とそうでない生徒の足並みを揃えるなど、どんな夢物語だろうか。

 まあ、今年に限っては、魔法科1年生の上位層のレベルがかなり高いことも、それを不可能なものにしているだろう。レイランを筆頭に、いわゆる「名家」「名門」家系の出身者が4人。美侑のような分家の出身が約10人。実戦経験持ちがこれだけ揃っていれば、なるほど暇人が図書館に籠るわけである。自分たちでも感覚的、というか本能的にやっていることを教えるという変に難易度の高いことより、自分たちの知識を増やす方がよほどいい。実戦を知っている者は、難易度の高い複雑な魔法ももちろん使えるが、その基礎は基本的な魔法と知識、技術であることをよく知っている。


「あの調子じゃ、本当の意味で魔力を制御できるようになるまで、かなりかかる。美侑が今から転入しても、大して問題にはならないよ。

 美侑は元々魔法使いの家系だし、もしかしたら他のみんなよりも早く魔力制御もできるかもしれない」

 やれやれ、という思いを込めて、レイランはもう1度ため息をついた。

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