葉桜の由来 (終ノ二 若葉)


 体をゆすられる感覚があって、私は目を覚ました。

「姉さん。もう朝」

「あ、んん。おはよう」

「おはよう姉さん」

「これ外すわね」

 和子が手首の紐を外す。手首には、きつく縛ってあったせいか、赤くあとが残っていた。

「……」

「姉さん、どうかした?」

 じっと手首を眺めていると、不審げに和子が言った。

「ねえ、和子。これ、途中で外したりした?」

 ボサついた髪の毛をとかしていた手を止めて、和子が眉をひそめる。

「外すわけないじゃない」

「そう……よね」

 窓の外。昨日あの光が立っていた庭。

 今はいつもの通り、真上に立つ梅の木から葉が落ち、真下の池の水に波紋はもんが立っている。

 あれは夢だったのだろうか。それにしてはやけに鮮明せんめいな……。身体にはまだ彼の温かさが残っている気がする。


「ちょっと姉さん!」

 そのとき、突然和子が叫んだ。


「足、何それ。すごい汚くなってる」

「えっ?……あっ!」

 足袋の裏面。家の中では絶対につかないような、げ茶色の汚れがついていた。まるで、草履ぞうりかないで外を出歩いたかのような……。

「外行ったの?」

 失望を宿したにらみを向けてくる和子に、私は首を横に振って否定する。

「まさか、だって、これ外せないし」

「でも、じゃあこの汚れは何?」

「さあ……」

「わけわからない」

「わからないのはこっちの方よ……」

 夢だけれど夢ではない。けれど、夢でないなら、この手首の紐はどう説明すればいいのか。


 次第に夜の、あの景色が、温かさが、声がよみがえる。

「そうだ……」

「何? 姉さん」

「和子。一つだけ、見逃してくれないかな」

「え、何を」

「私、約束したの。お願い」

「……外行くってこと?」

 小さく私は頷く。わかっている。私が信頼を失っているのは。

 けれど、何があっても、私は彼の願いをかなえてあげたい。あんな姿になってまで、私の元を訪れた、彼の、最後の願いを。


「お願い、和子。お願い……」


 和子の手を右のてのひらで包んで、私はうったえる。

 和子は人差し指の付け根を唇に当てて考え込んでいた。本当に考えこんでいる仕草だ。

 長い長い沈黙があった。その果て、和子は重たそうな口を開いた。


「駄目。認められない」


「和子……」

「でも、一つ条件呑んでくれたらいいよ」

「何?」

 飛びつくようにそう聞くと、和子はうつむいていた顔のまま、瞳だけを私の方に向けて言った。


「私もついていく。そういう、条件」


 隣村へ続く橋。以前は、篠突しのづく雨の中、一人で渡った橋を、今日は姉妹四人で歩く。


 元は和子だけの話だったのだが、和子の外出は危険という母の意見と、サクと彬子では監視にならないという和子の主張が衝突した結果、私の見張りとして和子が、その和子に何かあったときのための補助員にサクが、そしてとくに理由はないが彬子もついてくることとなった。


 和子に気を遣って、ゆっくりと私は歩く。

 彬子ははるか前方を走っていて、サクはその後を追っている。補助役とは何だったのだろう。


「和子、大丈夫?」

「うん。意外と散歩もいいものね」

 微笑する和子。

「ならよかった」

「彬子ー、そのあたりで止まりなー」

 サクが追いかけるのをあきらめて叫んだ。

 サクは私の代わりに彼の家へ行ったことがあるため、家の場所を知っているのだ。

 それですら想定外だったのに、こんな風に、彼の家まで皆で行くことになるなんて、少し前には想像できなかった。


「元気だなぁ」

 隣、微かに息をもらしながら、和子がつぶやく。普段、布団の上での生活を余儀なくされている和子からしたら、そんな妹たちの姿は憎らしく思えても仕方がないはずだ。

 けれど、そんな負の感情はどこにもなかった。微かな羨望せんぼうと母親のような慈愛じあいが、その表情には浮かんでいるだけだった。

 道祖神どうそしんを通り過ぎ、私たちは彼の家の前へと到着した。



**

「おや。北条ほうじょうさん」

 私たちを見て、柔い笑顔を浮かべたのは光次郎さんの姉だった。

「お久しぶりです。すみません、こんな大勢で」

「いえ。こちらこそ、申し訳ない。まさかあんなことになるなんて」

「いえ……」

「みんな、妹さんたち?」

「はい」

 そう返事をして、私は、日陰ひかげの岩に座る和子、「妖怪がいる……」と田んぼを指さしている彬子、「タガメだよあれ」と笑っているサクをそれぞれ指さして紹介した。

「へえ」

「あの、伊那いなさん。今日は、一つ、お願いがあってきたんです」

「お願い?」


「単刀直入に言います。光次郎さんのお骨を、分骨させていただきたいのです」


 意想外だったのだろう。当然だ。彼女は眉根まゆねを寄せて、首を傾げた。


「分骨?」

「ぶしつけなお願いなのはわかっています。ですが、事情があるのです」

 私は、昨夜の夢ならぬ夢を彼女に話した。突飛とっぴな話なのは分かっていたが、それでも語るしかなかった。

 彼女は笑うでも怒るでもなく、彼女は私の話を聞いてくれた。ただ、無反応なのは怖かった。


「……というわけでして、どうか、お願いします」

 頭を下げる。

 承諾しょうだくしてくれなかった場合は膝をつき、ぬかづく心構えも出来ていた。


 しかし、彼女は即答した。

「わかった」

「え?」

 まさかすぐに承諾されるとは思わず、逆に私は驚いてしまう。

 顔を上げると、彼女はすずしげな笑みを浮かべていた。

「あたしもね、夢を見たんだ。昨晩。光次郎が枕元に座って、あんたが来たらその頼みを聞いてあげてほしいって。、あいつはあんたのとこに現れたんだね」

「あっ……、そうか、昨日は……」

 忘れていた。昨日は彼が死んでから四十九日。彼が現世を旅立つ日だった。

「遺骨はまだ仏壇にある。少し待ってて」

 そう言い、彼女は家の中に戻る。私は涙の落ちるのを感じながら、再度首こうべれた。



***

 小さくなった彼をふところに入れて、私たちは土手に向かった。

 坂を上るときには和子の体調が心配なので、彼の入った小さな骨壺こつつぼをサクに預け、私が彼女をおぶった。


「……桜、真緑まみどりね」

 背中、ふわりとした和子の感覚。

 心の中に浮かんだある言葉を飲み込み、私は言った。

「来年はお花見したいなー」

 スコップを持って歩く彬子が地面をった。

「お花見かあ。しばらくやってないね」

 片手で持てるくらいの小さな入れ物を丁寧に両手で持って、サクが言う。

「ござ敷いてさ、おにぎりとかたべるの。楽しそうじゃない? ね、実和姉ちゃん」

「そうね……。戦争が終われば、そういうのもいいかもね」

「ねー」

 忌々いまいましそうに空を見上げながら、彬子は突然走り出した。

「こけないようにねえ」

 背中から和子が言うと、彬子は「ういぃ」と酩酊めいてい者のような返事をした。

 いつもならサクが追いかけるところだったが、今は慎重に歩を進めていた。


 坂を上り終えると、大河が見えた。無常に、無情に彼を運んだ、川の流れ。

「姉さん、もう大丈夫よ」

 後ろから和子の静かな声。彼女を地面に下ろして、サクから骨壺を受け取る。

「彬子に、そこで待っててって言って」

「うん」

 サクは駆け出す。「彬子―!」と呼ぶ声が、真夏の堰堤えんていに響いた。

「あれじゃ怒ってるみたいじゃない」

 カラカラと和子が笑った。ここしばらく、冷たい笑みしか見ていなかったから安心する。

「和子。あんまり無理はしないでね」

「姉さんに言われたくないけどね」

「んん……」

 何も言い返せず、川沿いの、夏とは思えないくらい清涼せいりょうな空気の中を歩く。

 彬子とサクが、少し前方で待っている。

 そこに着きそうになったとき、急に和子が言った。

「ごめんね、姉さん」

「何が?」

「びっくりさせちゃったでしょ」

「何の、こと?」

 もうわかっていたけれど、私は白を切った。

 おぶったときに感じた、気づいてしまった、いや再認識してしまった、体重の感覚。やっぱり、和子は、もう。

 しかし、わざわざ口する必要はないんだ。絶対に。


「気づいていないならいいわ」

 和子は重たそうに身体を動かし、目を細めて言った。その表情は、全てお見通しと言っているようだった。それならいつわらざる言葉を言えばよかった。

「姉さんは優しいわね」

 和子は笑う。叔父の小説と偽って、自作の小説を渡したときのような笑みだった。



****

 彼の愛した葉桜の下、彬子がスコップで穴を掘る。

「代ろうか」

「やだ」

 私やサクが言っても、彬子はかたくなに断った。

 そういえば、父や叔父が家の裏にあの地下壕を作っていた時も、彬子はずっと二人に付き添っていた。


「彬子さんのおかげで仕事が半日早く終わったよ」と言ったのは叔父だった。


「彬子がやった方が早いもん」

 もんぺが汚れるのもいとわず、芝生しばふに膝をついて彬子は一心不乱に地面をえぐっている。

「頑張り屋ね」

 木の下の日陰で、幹に背中をあずけてその様子を見ていた和子が、彬子の背中を撫でた。

「彬子、それくらいでいいよ」

 骨壺を持って私は穴の前に立つ。

「えー、もっと掘れるのに」

「目的変わってるじゃない……」

 サクが呆れたように言う。

「もう大丈夫。これだけあれば。ありがとう彬子」

 そう頭を撫でてやると、不機嫌そうな表情はどこへやら、彬子はパッと明るい笑みを浮かべた。


「こっちおいで。彬子。サク」

 和子が二人を手招きした。


 私と彼との別れを邪魔しないようにという配慮だろう。

 心の中で感謝しつつ、私は骨壺を額に当てた。



 光次郎さん。

 紆余曲折うよきょくせつありましたが、これでお別れです。

 私はあなたのことを、心の底から敬愛していました。

 いえ、今でも敬愛しております。光次郎さん。


 あなたとの約束は、私が果たしましたよ。これで、安心したでしょう。ここなら、あなたの大好きな葉桜をいつでも見られますものね。ねえ、光次郎さん……)


「姉ちゃん」

「しっ」

 そんなやり取りが背後で聞こえた。

 私は骨壺を目元に落とし、数秒黙禱もくとうして、彼の魂を埋めた。


 静かな風が吹く。

 後ろの妹たちは何も言わない。

 ふっと一息を吐いて葉の間からのぞく蒼穹そうきゅうを仰いだ。


「和子、サク、彬子。帰ろう」


 振り向いてそう声をかけると、三人は強張こわばっていた表情を柔らかくした。

 




 



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