葉桜の由来 (下ノ二 落葉)


 悪夢を、見た。


 世界がすべて赤に染まっている。私はひとり、誰もいないその町中を歩いている。

 見覚えのあるようなないような、よくわからない町だ。


 遠近感がめちゃくちゃになっている。

 遠くにあった何かが近くに迫って来て、かと思うと近くにあったものは遠くに離れていく。それが連続して……。


 足元を見ると真っ暗になっている。

 影というわけでもなく、ただ黒い地面だ。なんなのだろうと不思議に思った次の瞬間だった。


 ふわり、と私は浮遊した。


 しかし宙に浮いたのではない。地面だと思っていたそれに、落下したのだ。


 何かに似ている、そんな印象が胸に宿る。(落ちる落ちる落ちる)。……うず? 渦だ。そうだ。大河の流れに突然現れる渦だ。(落ちる落ちる……)。落ちるまで気づくことのできない落とし穴だ。(落下する。どこまで?)。


 死ぬ? このまま落ちたら、死んでしまう? 嫌だ、それは。……けれどそうすればあなたに会える?

 落ちる落ちる落ちる。陥穽かんせいに沈む。私の最後はここ? 彼の最期と同じ場所? でも本当に彼は死んだ? 


「うう……ああ……」


 私は思考に押しつぶされながらうめき声をあげた。言葉に出来ない感情はそうしたって何一つ消えるものではなかった。




 瞳を開く。

 一瞬まだ夢の中かと身構みがまえたが、握られた手の感触かんしょくで、そうではないことをさとる。

「うぅん……誰……?」

「姉さん、やっと起きたのね」

 静かな冷たい声。顔を見ずともわかる。

「和子?」

 涼しい空気。薄暗い光景。

「今は……」

「もうじき夜が明けるわ」


 身体を横に向ける。

 和子は隣の布団から手を伸ばし、私の方を見て微笑していた。

「和子……、だめでしょ。早く寝なきゃ……」

 身体が重い。口も動きづらい。意識も重い。動けない。

「姉さんだって起きてるじゃないの」

「『起きた』と『起きてる』はちがうでしょ」

「うるさいわね……」

 そう言うと、和子は私の布団の中に入ってきて、身体をギュッと寄せてきた。組まれた腕が、繋いだ手が酷く熱く感じる。

「和子……」

「姉さん、たまに馬鹿な事するから心配」

「……」

「四十度なんて、私でもそう出ないわよ」

 障子しょうじの向こうに月明かりの気配がある。これも障壁か。相手の存在をより自覚するための、障壁。


 サクと彬子はそちらの方で眠っている。寝相ねぞうの悪い彬子の腕が、サクの顔に直撃していた。

「和子、離れて。うつったら大変」

「大丈夫よ。もう、大丈夫」

「何が……」

 そう言うと、和子は私の胸に顔をうずめた。小さい頃を思い出す。喧嘩けんかをした夜でも和子は気付くとそうして私の中で眠っていた。

 こんなに近い距離にいれば、壁なんてできない。逆に言えば、これくらい近くにいないと、いついなくなってしまうかなんてわからない。なのに、私はあの人を……。

 その頭を軽く抱きしめて、私は言った。


「……戦争に、行くっていう人がいてね」

「うん」

「私、その人のお見送りに行ったの。でも来なかった。どうしたんだろうって、その人のおうちに行ったら、帰ってこないんだって。昨日の空襲の後から、帰ってこないって」

「……うん」

「死んじゃったのかな。……どうしよう。もし、そうだったら……」

「姉さん」

「見送るまでは、生きてるって思ってたのに……! 戦地に行っても、帰って来てくれるって、信じてた……! なのに、なのに……!」


 勘違いしていた。見送った先で戦死してしまうとしても、それまでは何も起こるはずがないと。そもそも考えもしなかった。


「何て……、何て、馬鹿なんだろう……」

 何もなかったかのように、帰って来てくれればそれでいい。

 何も言わず、師団しだんのある町へ行ってしまったなら、それでもいい。

 けれどもし、死んでしまっていたら……。私は、私は……。


「でも、亡くなったなんて、誰も言ってないんでしょう?」

 和子は落ち着き払った声で言った。

「希望は絶対捨てちゃだめよ。姉さん。確証が何もないうちは、生きているって思わないと」

「でも……!」

「そう思わないと、生きていけないでしょう」

 微かに震えたその声に、はっと私は息をのむ。

 そうだ。和子は、既にそうしているのだ。

 何も言わず消えた叔父が死んでしまったなんて、きっと欠片ほども思っていない。それは、そう思ってしまったら、きっと、自分がだめになってしまうと思っているからでもあるだろうし、叔父を信じているからでもあるだろう。


「大丈夫。最悪な想像のほとんどは、きっと起こらないんだから」

「和子……」

 今更ながら思う。この妹も、いつの間にか大きくなったものだ。

 決して落ち着けるような体調ではないはずなのに、こうやって冷静に私を励ましてくれている。

 逆の立場だったら、きっとここまでできない。自分のことだけで精一杯で、押し潰されていたに違いない。


 和子の語りに冷やされたのか、最悪な結末ばかりを想定していた心が落ち着きを取り戻していく。

「和子」

「何、姉さん」

「一緒に待とうか」

「え、何を」

「私はあの人を。和子は叔父様を」

「い、いや叔父様は、別に、わたしだけの話じゃ……」

 顔を上げて、わかりやすく動揺する和子の頭を撫でて軽くあしらい、私は仰向あおむけになった。

 見上げた天井は、さっきよりも明るくなっていた。

 

 

 朝になって、私はサクを呼んだ。そして、隠していた砂糖菓子を賄賂わいろにして頼みごとをした。


「隣村の国村さん?」

「そう。理由は聞かないで。代わりに行って、聞いてほしいの。北条です、戻ってきましたかって」

「戻ってって何が?」

「お願い。そう聞くだけでいいから」

 理由は言わなかった。不誠実だなとは自分でも思っていた。しかし、サクは不審ふしんそうな表情をしながらも「わかったよ」と行ってくれた。

「見つかるといいわね」

 微笑みを浮かべる和子。私は「うん」と頷いた。

 しかし、この日も彼は戻ってきていないと言うことだった。

 


 翌日もサクに行ってもらった。その次の日も。その翌日には私の体調が戻ったため、自分の足で向かった。しかし、答えは変わらなかった。

「大丈夫、大丈夫……」

 再び悲観に傾きそうになる意識を、おまじないのような言葉で打ち消す。

 頭の中に、和子の言葉も再生して、気丈にふるまう。


 けれど、そんな訪問を続けるうち、ついに一週間が経ってしまった。

「捜索はつづけていますが、最早、あてもなく……」

 光次郎さんの兄はそう頭を抱えた。

「このご時世じせいだから、家出は決して珍しいことではないけど、光次郎と誰かがもめていたわけでもないし、本当に心当たりがなくて」

 そう言ったのは、さらに年上になる、光次郎さんの姉だった。弟二人とは違い、気の強そうな女性だった。

「あんたもなんか知ってるんだったら教えてくれ」

「はい……」

「それから、いちいちここに来るのは大変だろ。これからは、毎日家から手紙をるからさ」

「あ……」

 彼と似た、優しい笑みを浮かべる彼女は、どうやら私と彼の関係に察しがついているらしかった。

「すみません。ありがとうございます」そう頭を下げ、私は自宅に戻った。


 その翌日から彼女が言った通り、手紙が届くようになった。しかし、書かれている文字は『消息不明』だけだった。



 

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