葉桜の由来 (中ノ三)

 そういえば、和子はパイナップルが好きだった。確か缶詰があったはず。あとで持っていってやろう。

 母の隣で夕餉ゆうげの手伝いをしながら、ぼんやりそう思ったときだった。  


 警戒の音が、町中をどよもしたのは。



「っ!!」

 私と母は同時にびくっと肩をふるわせた。


 いち早く母が包丁を置いて窓を開け、外の様子を確認する。そして私に「和子を!!」とだけ叫ぶと居間の方に走っていった。

 けたたましいサイレンが、響く中、私は部屋に駆けた。


「姉さん……!」

「逃げるよ和子!」

「ほかのみんなは!?」

母様かあさまと先に避難したと思う。早く私たちも!」

 恢復かいふくしたとはいえ、虚弱きょじゃく体質で素早くは動けない和子の身体をおぶって立ち上がる。

「あっ、待って姉さん!」

「何!」

「さっきの持ってかないと……」

「何馬鹿なこと言ってるの! そんなものまた書いてあげるから!!」


「違う! 日記よ! 姉さんの!」


「日記……?」

「姉さんの大切なものでしょ?書き直すことのできない、大切なものでしょ!!」

 一瞬、戸惑ったが、私はそれを振り払い、家の外へと走った。

「姉さん!!」

「日記なんていい。今は逃げるの」

「でも……!」

 何故かかたくなに訴える和子を今は無視して、家の裏手に作った地下壕ちかごうまで走る。遠くの空に、小さく飛行機が見えた気がした。

 背中の和子はもう何も言わなくなっていた。


 防空壕ぼうくうごうに滑り込み、既に避難していた母たちと合流する。

「実和さん! 和子さん!」

「母様!」

 サクと彬子は防空頭巾ずきんを被って小さく丸くなり、身体を寄せ合っていた。

「和子さんを!」

「はい!」

 背中から和子をおろして母に預ける。母に受け止められた和子はぐったりとしていた。

「和子、大丈夫?」

「ん……」

「口開けて」

 疲弊ひへいしている和子のわずかに開いた口に、水筒すいとうに入れておいた水を飲ませる。

「実和姉さん……」

 サクと彬子は、いつもの溌剌はつらつさが嘘かのようにおびえ震えている。

 そんな二人を、「ここいれば大丈夫だから」と私は抱きしめ、背中を撫でる。

 その時、外で爆音がした。地面が震える。「きゃあああっ!」とサクが叫び、彬子が泣きだす。私はそんな二人を固く抱きしめた。


「落ち着いて……」

「ううう……」

「怖いっ……!」

「大丈夫だから……」

 和子は母の手を握っている。その手がかすかに震えている。母は私と同じく和子に「大丈夫、大丈夫です」とささやいていた。

 

 それからまもなく、外からは何の音も聞こえなくなった。

「母様、ちょっと見てきます」

 私が立ち上がって言った。今動けるのは私しかいない。

「待って実和姉さん……!」

「まだ危ないよお姉ちゃん!」

 そううったえるサクと彬子の頭を撫でて、「大丈夫よ」と笑んだ。

「気を付けてくださいね」

 冷静に私を見上げて言う母に、私は深くおなずき返す。引き留めはしないものの、心配そうに私を見つめてくる和子にも「大丈夫」と言い、私はゆっくりと掩蓋えんがいを開けた。



 外の景色には、あまり変化は感じられない。幸い、家も破壊されてはいないように思える。

 身体を出して、外に出る。

「あ……」

 一瞬無傷だと思ったが、叔父のいた元物置や浴室が壊されていた。

 庭から家に入ると、ガラスが割れているところは随所ずいしょにあったが、幸い、共同部屋や両親の寝室、父の書斎しょさいや台所などは無傷だった。

 家の外の通りに回ると、あちこちでへいや家のかわら屋根が壊されてはいたものの、被害としては決して大きくはないように思えた。ほっと胸をなでおろし、私はきびすを返した、が。

「あっ……!」

 遠くに、また飛行機が見えた。

 慌てて引き返し、地下壕に入る。

「姉ちゃん」

「大丈夫だった!?」

「うん。でもまた来たみたい……」

父様とうさまは大丈夫かしら……」母を見上げて和子が言う。

 母はその黒髪を撫でて「心配しなくても、大丈夫ですよ」と言った。

 外から小さく飛行機の飛ぶ音がする。私は再びサクと彬子を抱きしめた。しかし、今度は爆音は全く響かなかった。

 

 それから数十分、私たちは地下壕を出た。

 たった一時間ほど地下にいただけだったのに、夕陽の光がひどく眩しく感じた。


 和子は疲労が頂点に達してしまったせいか、布団に横たえるとすぐに眠りについてしまった。母は「壊れたところはまた後で考えましょう」とだけ言って、何事もなかったように台所に戻った。

 サクと彬子は居間に戻ったが、二人とも憔悴しょうすいしきった様子で、何も語らない。

 私は飛びちったガラス片を拾い集めて片付け、すぐに母の所に戻った。


 戦争は接近していた。それも、私たちの命までも奪える距離までに。一度は自覚したはずのことを、今、再認識する。もはや、戦争は遠くで起こっていることなんかじゃない。絵空事でも他人事でもないのだ。

  




 父は夜遅くになっても帰ってこなかった。


「父様死んだりしてないよね……?」

 不安に駆られたのだろう。彬子がそう言った。

 私は「大丈夫よきっと」とはげまし、母も「心配ないですよ」とさっき和子に言っていたことを繰り返したが、彬子もサクも、私も、恐らく母も内心では不安で仕方がなかった。


 その父は、しかし、深夜になって帰ってきた。

 ちちいわく、職場のある三丁目の被害が甚大じんだいで、叔父の残した家に同僚とともに避難していたという。同僚の中には死者も出てしまったらし。

 亡くなった人もいる以上、素直に喜べないけれど、ただ、家族全員生き残れたことについては安心した。

 もう忘れないと、私は決めた。戦争は身近な事象じしょうだということを。それを自覚していてどうにかなるものでもないけれど、二度と誤認ごにんしないと決めた。



 けれど、私はすぐに気づかされることとなる。またも身勝手に、そして大きな勘違いをしていたことを。

 



 ※以降は、戦後まもなく、曾祖母が記した文です。日記とはまた別の文章で、そこには日記の内容と符合ふごうする記述がある一方、和子さんのことについて、日記にはない言及がありました。中編は、それをそのまま引用することで結びとしたいと思います。


『(前略)あのとき、和子は緊急事態にも拘わらず、私の日記を持ち出そうと背中の上で訴えた。私はそんなひまはないと一蹴いっしゅうして避難したのだが、その時は、なぜ和子がそこまでこだわりをもつのかわからなかった。

 それがようやくわかった。

 和子は、自分がいなくなっても私の日記の中には存在し続けることができると信じていたのだ。死んですべてが終わるのではない。自分は私の日記の中で、私の意識の中で生き続けることができると。

 しかし、もし空襲でそれが灰燼かいじんと化してしまったら全てが台無しだと。そんな、妹の中にのみあった一種のオヴゼッション(作者注:強迫観念の意。戦後になると、曾祖母は英語を多用するようになる)が、先の発言を呼び起こしたのだろう。それを言ってくれていたなら、日記なんてなくても私はあなたのことを忘れなんかしないと言っただろう。しかし、妹は信用できなかったのかもしれない。人間の記憶能力を。すぐに忘れてしまい、それに気づくことすらできない、そんなものを。

 今の私にはそれを理解できる。


 幸いにして、日記はすべて残った。私の主観ではあるけれど、妹はこの中で確かに生きている』

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る