葉桜の由来 (中ノ二)
翌木曜日。
危ない状況だと言われていた和子が目を覚ました。まだ熱はあるようだったが、自力で起き上がれるくらいには回復していた。
「和子姉さんよかった……」
サクが抱きつくと、「勝手に死んだりしないわよ」と和子は、いつもの笑みを浮かべた。
「まだ熱あるんだから、早く寝ときなさい」
「今まで寝てたんだからいいでしょう、ちょっとくらい」
「駄目よ。じっとしてなさい」
そう言って私はあるものを差し出した。妹は浮かべていた笑みを引っ込める。
「……なにこれ」
「叔父様の部屋にあったわ。机の上に。最新作って、
「……」
和子は十枚ほどの原稿用紙の束を見つめたまま黙っている。
「叔父様の小説が大好きなんでしょう? なら、読んでみたらどう?」
「姉さん……」
「和子姉さん、おじ様おじ様ってずっとうなってたもんね」
「え……?」
口を
「わたしたちはあっちいるから。ほらサクも」
妹は原稿用紙を胸に抱いて頷いた。前髪のせいで瞳は見えなかったけれど、彼女は珍しく病熱以外の理由で頬を染めていた。
「実和姉さん、おじ様の作品、どんなだったの?」
三人で居間に戻るとサクが言った。
「うん?」
「新作って。おじ様の」
「あぁ、私は読んでないわ」
「えっ。どうして」
「どうしてって……、だって和子あてのようなものでしょう? 叔父様の小説、和子しか読まないんだから」
「そうかもだけど……。何、姉さん眠いの?」
「まぁ、少しね」
「昨日の夜、徹夜で手紙書いてたから?」
何気なく、という様子で彬子が言う。
「……手紙なんて知らないけれど」
「嘘つき。破れ紙に書いてあったよ。私もあなたのことを愛してますって」
「……」
「実和姉さん、あれ恋文だったの?」
サクが眉を寄せた。私は
「あとで何でも買ってあげるから。ね、その話は」
人差し指を口に当てて示すと、彬子は「約束だよ」と小声で言った。
「ねぇ、実和姉さん、本当なの?」
「何が?」
「今の、彬子の言ってたの」
「何のこと?」
「え?」
「サク何言ってるのー」と棒読みで彬子が言う。どうやら
「えぇ……? 私がおかしいの……?」
*
夕方、母から和子が呼んでいると言われて、部屋に入った。
和子は布団の上で起き上がっていて、私を見ると、例の笑みを見せた。
「和子、調子はどう?」
「まあまあよ。姉さん」
「そう。ならよかった」
「ちょっと、ここに座ってくれる?」
和子は布団わきの畳を撫でて示す。
「いいけれど、どうして」
そういうと、和子は反対側から、さっき手渡した原稿用紙を見せた。
「……それ、おじ様の」
「大丈夫よ。姉さん。もうわかってるから」
和子は笑う。背筋に汗が
「何の、こと?」
とぼけても、きっともう無駄なのだろう。そうわかってはいたが、ついとぼけてしまった。
和子は優しい笑みを浮かべて言った。
「姉さんが書いたんでしょう? これ」
まさに、和子の言う通りだった。
叔父が戻ってくればバレてしまうのはわかっていたが、まさか、こんなにすぐ気付かれてしまうなんて。
「いや……」
違うと続けようとした私の声はすぐに遮られた。
「叔父様の文章じゃないことくらいすぐわかったわ」
「え? そうなの……?」
「色々おかしいところはあるけど、例えば、叔父様らしくない表現がたくさんあったわ。そりゃ、一つくらいはそういうのもあるでしょうけど、こんなにたくさんあると、もう違う人の作品って考えた方が考えやすい。それから、叔父様はあんまり国家に関することは書かないのよ。公務員の気持ちが抜けてないんでしょうね。書くとしてもかならず中立の立場で書くの。だから、
「も、もう、それ返して」
急激に恥ずかしくなって、私は叫んだ。
「いやよ」
「どうして!」
そう言うと、和子はふふっと優しい笑みを浮かべた。
「わたし、この作品好きだもの」
「え?」
「ふふっ」
しかし、和子は原稿用紙を抱いて満足そうに笑っている。小さかった頃、絵本を読んでやった時のように純粋な笑顔だった。
「ありがとう。姉さん」
「和子……」
次の瞬間、涙が溢れ出した。理由はわからない。けれど
「泣くことじゃないのに」
そう呟く和子の声が聞こえた。
「でも、どうして私が書いたってわかったの」
「え?」
「叔父様が書いたものじゃないってわかっても、私が書いたとは断定できないでしょう?」
すると和子は、あきれたように言った。
「そんなのすぐわかるわ」
「どうして」
「まぁいろいろあるけど、一番わかりやすかったのはクニの字が『国』になってたことかしら。叔父様は『國』で書くから、違うっておもったの。姉さん、日記で書く時もこっちの漢字使うものね」
「確かに……。……何で、日記の字がばれてるの?」
「あぁ……まあ、それはおいといて」
「いやいや」
「それにしても、
無理やり遮った和子は、少し慌てたように言った。
「
上手く誤魔化された気分だが、そう言われて悪い気はしなかった。日記をのぞき見されているのは不問にしてやろう。
「お気に召したのなら光栄です」
和子は口元を隠して再び微笑んでいる。昨日まで
「そろそろ夕時ね。何か作ってくるからちゃんと食べなさいよ」
そう命じると、和子はこくんと小さな顎を引いた。
部屋を出て、居間に戻る。
普段は無口であまり感情を見せない母だが、包丁の動きを止めて一言「よかったです」と胸をなでおろしたように言った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます