葉桜の由来 (中)

和子わこ姉ちゃん、大丈夫?」 


 すえの妹、彬子あきこ枕頭ちんとうに座り、和子の手を取って言った。

「んんん……う……うぅ……」

 和子は引かない熱の中でもがくようにうめく。

 頬に赤みがさしている。時折、こぼす咳が痛々しかった。


「彬子、そっとしてあげなさい」

「でも心配」

「大丈夫だから。サクと遊んできな」


 そう言って頭を撫でてやると、彬子は頬をふくらませ、私の膝を枕にして寝転がってきた。

 九歳の末妹は、まだ甘えたい盛りなのだろう。それは和子もサクもそうだったし、きっと私もそうだった。それを無下むげにされることの悲しさを長女たる私は知っている。


 お腹に顔を押し当ててくる妹の背を撫でていると、彬子は寝息を立て始めた。

 晩春ばんしゅんの、穏やかな朝だったが、数日来続く混乱は何も解決していなかった。


 あの祭りの日から三日ほど経った。隣村に住む彼とは、あれ以来会っていない。平生へいぜいから二日に一回会ったりするわけでもないため、何か特段の問題があるわけではないのだが、それはつまり、彼との関係に関して選択することが出来なかったという、あの日の最後から、何も進展していないままだということだ。

 しかし、彼の出発の日は、刻一刻と迫っている。もう私には、彼を戦地に送り出す事しかできないのかもしれない。

 


 手紙を残して出発した叔父は帰ってこない。

 変わり者の叔父のことだから、冗談だと言って帰ってきてもおかしくはない気がしたのだが、三日経っても帰っては来なかった。

 叔父の出立に関して、兄である父もまったく聞いていなかったらしい。叔父の知人に何か知らないかと聞いてはいるそうだが、結局消息は不明のままだ。

 ただ、駅頭で見かけた人がいたというから、電車に乗って師団しだんのある町に移動し、従軍じゅうぐんしたのかもしれない。


 叔父が出征しゅっせいした理由はわからない。手紙の通り、皇国こうこくに生きる男児として戦いたかったのかもしれない。それなら、私たちに止めることはできない。

 けれど、もし叔父と会ったなら、その頬をはじきたいと思った。

 


 和子の体調も悪いままだった。それどころか、日を増すごとに悪くなっていくようだった。

 医者は「危険な状態です」と神妙しんみょう面持おももちで言っていたが、仕事のある父と家事に追われる母に代わってずっと和子の側に居た私には、そんなことはもう、言われずともわかっていた。紅い頬、乾いてあざやかさを欠いた唇、浮き出たあばら骨を見ていれば、そんなことは、もうとっくに。


 額や首筋に浮かぶ汗を拭ってやりながら、妹の側に座っていると、時折妹が左手を天井に向かって伸ばすことがあった。

「うぅ……、叔父様……。叔父様……」

 そしてそう繰り返すのだ。


 平生へいぜいの余裕げな口ぶりや態度は、今や消え失せていた。

 かつてないほど弱っている妹を見ると、本当に胸が痛んだ。

 気休めだとはわかっていたけれど、そういうときは、彼女の手を握り、額に手を添えて言った。

「大丈夫、大丈夫だから……」

 何が、と聞かれたら返事ができないほど根拠も理由もない言葉だったけれど、妹はそうしてやると微かに笑みを浮かべてまた昏睡こんすいに落ちるのだ。

 そして時間が経つとまた同じことを言い、また手を握って言ってやり、するとまた昏睡こんすいする。三日間、その繰り返しだった。

 



**

 配給のお米をサクと一緒に持ち帰る途中、サクがちょっと休もうというので、土手の草の上に座った。


「和子姉さん、いつよくなるの?」

 サクは膝頭ひざがしらに手を置いて座り、俯きがちに言った。

「今まで、あんなに寝たきりだったとき、なかったじゃない。一日寝たきりでも、大抵たいてい次の朝には目を覚ましていたじゃない」

「そうね……」

「私、姉さんが治るんだったら、ご飯いらない。全部、姉さんにあげてもいい」


 それは妹なりの決意だったのだろう。けれど、きっとわかっていたはずだ。そんなことで治りはしないということは。

 不意に太陽が雲に隠れた。


(何か障壁があった方が、より相手の存在がわかるってことかしら)


 三日前、和子が雲に隠れた月を見上げて言っていたことを思い出す。

 私たちの周りには今、その関係が溢れている。和子と叔父、私と光次郎さん、私と和子、妹たちと和子、妹たちと叔父、私と叔父、父母と叔父、父母と和子というように。


 障壁がなくても相手の存在を大切に思えるほど、私たちはできた人間ではなかった。失いそうになってから初めて慌てふためくような、そんな愚鈍ぐどんな人間だった。けれど、この世に生きる人の、いったいどれくらいが聡明でいるだろう。


 私は気丈きじょうに涙をこらえている、五つ下の妹の小さな背をでてやる事しかできなかった。



***

 家に帰ると、手紙が届いていた。差出人は国村くにむら光次郎とある。

「光次郎さん……」

 母に見つからないように部屋に入り、中身を取り出すと、筆圧ひつあつの強い彼の文字があった。

 頬が染まるような愛情表現の後で、私は現実に引き戻された。



『金曜の早朝に出発することとなりました。見送りに来ていただけたなら、とても嬉しく思います』



「金曜……」

 今日は水曜日。明後日には、彼は出発してしまう。

 国内の基地か、中国か、異国に浮かぶ島かはわからない。けれど、少なくともここではないどこかへ。

 手紙を机に置き、ため息を吐く。


 和子は今は静かに眠っているようだった。不安になってその胸に触れてみたが、きちんと鼓動はあった。

 今度は安堵あんどのため息を吐いて、私は机に向かう。

 見送りの日には、私の思いを込めた手紙を彼に渡したかった。どこへいっても、何があっても、必ず待っていると、そう伝えたかった。

 鉛筆を持って、書き出し部分に鉛筆の先を向ける。しかし、納得のいく文章が書けず、完成しては破き、完成しては破きしていると、もったいないよとサクから怒られた。

 試行錯誤を繰り返し、白い便箋びんせんに黒の文字群が並んだ頃には、もう陽は沈んでいた。

 

 書き終えて、腕を伸ばす。背後ではまた和子が腕を伸ばしていた。

「う……」

「和子……」

 熱にあえぐ妹の姿に、私はふと妙案を思いついた。いや、思い出した、というべきかもしれない。

 それはいつか読んだ小説のエピソードの、再現のようなものだった。鉛筆を持って、叔父の部屋に向かう。徹宵てっしょうでそれを書き上げようと決意した。


 


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