葉桜の由来 (上ノ二)

                             

「ただいま帰りました……」

 ささやくような声量で私は玄関の扉を引いた。


 今日は特例で、門限をいつもの七時から九時に変更してもらっている。今は八時半だから何も問題はないのだが、つい癖で声を細めてしまう。


 居間の電気は消えていた。我が家は夜が早い。母も妹ももう眠っているのだろう。

 すり足で妹たちとの共有部屋に入る。案の定、妹たちはもう眠っていた、が。


「あれ、和子わこ……?」


 思わずまゆをひそめる。寝息を立てていたのは三女のサクと四女の彬子あきこだけだった。

 手提てさげを置いて部屋を出る。


 二つ下の妹、和子は生まれつき身体が弱く、今も週に一度は医者の世話になっている。そんな妹が歩き回るとは考えづらいのだが。

 浴衣ゆかた姿のまま廊下を歩くと、庭に向いた縁側に座っていた。

「和子」

 そう声をかけると、彼女は私の方を向いて笑った。


実和みわ姉さん。帰ってたのね」


 月の光を浴びた白い笑顔。一つ安堵あんどの息をついて、私は和子に言う。

「駄目じゃない。こんなところにいちゃ。ほら、部屋に……」

「姉さん、何かあった?」

 しかし、和子はそんな私の言葉を遮って言った。おかっぱよりわずかに伸びた漆黒しっこくの髪が揺れる。


「何が?」

「気のせいかしら。なんとなく様子がおかしいようにおもったんだけど」


 私はまたも即答できなかった。けれど、黙ったままだと肯定したも同然になってしまうので、私は笑みを張りつけて隣に座った。


「何でもないわ」

「ふうん。そう。姉さんが言うなら、そうなんでしょうね。姉さん、わたしに嘘ついたりしないものね」

「そうよ」

 彼女と目を合わせず、私は空を見上げる。浮かぶ月にちょうど雲がかかるところだった。


「たなびく雲の絶え間より、もれ出づる月の影のさやけさ、ってやつね」

「何言ってるの」

「姉さん、百人一首知らないの?」

「知ってるから言ってるの。それは秋の歌でしょ」

 そう言うと妹は満足したように笑みをこぼして立ち上がった。

「秋風のたなびく雲の……。雲の間から見える月のかがやきが綺麗。ね、何か障壁があった方が、より相手の存在がわかるってことかしら。姉さん、どう思う?」


 この妹はなにもかも見透かしているようなことを言う。私の今日の一部始終を見ていたんじゃないかと思ってしまう。そんなことはありえないのだけれど。


「さぁ」

 私は平静をよそおってそう言うほかなかった。

「姉さん」

 すると突然、彼女は私の手の上に自分の手を重ねた。光次郎さんのものとは違う、冷たい手のひらだった。

「何?」

 隣の妹はじっと私を見つめてくる。

 誰かに穴のあくほど見つめられるのは、たとえ同性でも妹でも緊張する。

「和子?」

 彼女は、浮かべていた笑みをいつの間にか消していた。どこか様子がおかしい。普段は大胆不敵というか、余裕そうな表情を浮かべているのに。


「どうしたの。何か、あったの?」

「……」


 黙ったままの和子は、肯定も否定もしなかった。ただ、なぜか、うつむきがちに唇をかみしめて、私に抱きついてきた。

「和子? 本当にどうしたの。変よ」

 さっきの彼との抱擁ほうようには程遠い、そっとかぶさるような軽い抱擁ほうようだった。ただ一つ、背に添えられた手の震えだけは同じだった。


 戸惑いつつ、私は妹の背に手を添える。微かに、病のかおりがする。

「お願い、このまま動かないで。少しだけ……少しだけでいいから」


 声まで震わせて、和子は言った。問いかけることはできたけれど、私はただ彼女を抱き寄せて、何も言わないでいた。

 言えなかった。妹の背負う重たい運命を思えば。


 妹は手を、腕を、呼吸を震わせて、けれど、泣き声は出さなかった。

 だから、きっと泣いてはいないのだと私は私に言い聞かせた。泣き顔を見せまいとしている妹にどうして泣いているの、などと聞くのは、野暮やぼというか、とても残酷なことに感じたのだ。


 どれくらい時間が経ったかわからない。妹は身体を離して、いつもの余裕げな表情で私を見た。

「浴衣、綺麗ね」

 今更の感想を、妹は呟いた。微かに赤みを帯びた瞳に気付かないふりをして、私は「そうでしょう」とだけ言って笑みを作った。


 月明かりの下で向き合う、悲哀ひあいを隠した私と妹はとてもよく似ている気がした。


                             

                             

 

 翌朝、妹はひどく体調を崩した。高熱のせいか起き上がることもできず、薄く瞳を開いて「叔父様……」とうわ言を繰り返すだけだった。

 そこにいたってようやく私は、昨晩、妹の様子がおかしかった理由を知った。


秀介しゅうすけおじ様、何も言わずに出ていかれたの。置き手紙があって。私と彬子あきこで三丁目の自宅も探したんだけど、いなかった」

 そう言ったサクは、唯一残されていたというその手紙を棚から取り出した。


  僕は、皇国こうこくにこの心血しんけつを注ぐことを決めました。この

  二年、大変お世話になりました


 男性には似つかわしくない、綺麗な薄い文字で、それだけが書いてある。

「叔父様も……」

「どこへいったのかはわからない。けれど、きっと軍に志願したんだろうって。和子姉さん、それですごく取り乱しちゃって大変だったのよ」

 サクは恨めしげに言うと、居間の方に行ってしまった。


 父方の叔父は、内務ないむ省の役人をやめてここに戻ってきたという変わり者で、立派な自宅があるにもかかわらず、この家のすみにある物置を自室に改良し、小説を書いて暮らしていた。

 父と母は、もっといい部屋を用意してやる、とか、三丁目の自宅の方が住みやすいだろう、とか、何度も言ったのだが、叔父は「僕は、こっちの方がいいんです」と笑うだけで、ずっとそこにいた。


 そんな変わり者の叔父だったが、物腰ものごしが柔らかく、ひょうきんな性格だった彼を、私たち姉妹は敬愛していた。


 そんな叔父ととりわけ親しかったのが和子だった。病のとこ、唯一といっていい彼女の趣味は本を読むことで、叔父が新しい作品が出来たと言うと、妹は必ず目を通していた。


「叔父様の小説が大好き」


 和子は叔父にそう言っていた。言われた叔父は、「ほめられるとうれしいものだね」と、おそらく本気で照れていた。


 ただ、私は感じていた。和子が好きなのは、作品だけじゃない、と。

 そしてきっと叔父も少なからず和子のことを意識している、と。


 一度叔父に聞いたことがある。

「せっかく書いた小説を、巷間こうかんに広めようとは思わないのですか?」

 すると叔父は、腕を組んで天井を見上げながら、いつもの微笑みをたたえて言った。

「世間様に見せるようなものじゃない。売るにも金と勇気がいるんだ」

「勇気?」

「もし、売れなかったら悲しいじゃないか。だったら、売らない。売らなければ、売れないことは無いだろう?」

 それは、あるいは本心だったかもしれない。けれど、私には、和子以外に読んでもらう必要はないと言っているようにも聞こえた。

 


(ね、何か障壁があった方が、より相手の存在がわかるってことかしら)


 日差しの強い中庭の縁側に腰かけて、昨日の和子の言葉を思い出す。あれは私に向けた言葉じゃなかったのだ。ただただ、自らの境遇を嘆くような、納得させるような、そんなげんだったのだ。


 うるみかけた涙を、上を向いて誤魔化す。どうして私まで泣きそうになっているんだ。

 瞳を閉じると、せきを切ったように思考があふれ出てくる。


 現実は漸進ぜんしん的に近づいてくるのではない。俄然がぜんとして接近してくるのだ。

 そして、一度起こってしまったことはもう、二度とは戻ることはできない。

 ちょうど川の流れのようなものだ。決して止まってくれなどしない。私たち人間はただ、その流れの中を彷徨ほうこうするしかない。


 しかし、ときに、その大河はぽっかりと渦をまいて、彷徨する人間を飲み込んでしまう。飲み込まれた当人はそれに気付くことは無い。気付いた時にはもう、戻れない深みに沈んでしまっているのだ。


 そんな、今まさにうずに飲み込まれようとしている人に、私たちは何ができるのだろう。腕を伸ばしただけでは、きっと何の意味もないのだろう。



 ……いやそもそも、私はなぜ、自分自身が飲み込まれていないという前提で考えているんだろう。


「はぁ……」


 ため息を吐いても、涙が頬を伝っても、下唇を噛んでも、爪のあとが残るくらいにこぶしを握っても、この悲嘆ひたんは消えそうにない。

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