葉桜の由来 (上)

 ※以下はわたしが曾祖母の日記をもとに作成した、ノンフィクションに限りなく近い(と自負している)フィクションです。

 


 仮題[葉桜の由来]

                                                            

 春だということを忘れてしまうくらい暑くなった夜、私は藍色の浴衣を着て神社に向かった。

 変なところがないか鏡で何度も確認し、約束の時間ギリギリで鳥居の前に行くと、彼はすでに到着していた。


「ごめんなさい。おくれてしまって……」

「いやいいよ」


 彼はやわく笑んで言った。そして私の出で立ちを脳天から爪先まで凝視ぎょうしすると、数度頷いて言った。

「よく似合ってる」

「ほんとうですか?」

「うん。ほんとうに綺麗だよ」

 私は、顔を下に向けてしまった。面と向かって綺麗だと言われたのは初めてで、とても恥ずかしかったのだ。

「行こうか」

 甚兵衛じんべえ姿の彼が、私に手を差し出す。その手を軽く握り返し、長い石段いしだんを上った。

 

 

 神社の創建を記念した祭りは、戦時下という時世柄じせいがら、当初は中止も検討されたそうだが、結局規模と時間を縮小して開催されることとなった。本殿の方から笛やしょうや、つづみの音が聞こえる。


「意外とちゃんとやってるじゃないか」

「ええ。そうですね」

「どうする。何か、食べるか?」

「そうですね……」

「それとも、あっちがいいかい?」

 彼が指をさす方には、桜の綺麗な堰堤えんてい》がある。今はもう桜の花は散ってしまったが、私と彼が会うときは決まってそこを歩くのだ。

 わたしは「ええ」と頷いて彼を見上げた。



「足元気を付けて」

 そう言って彼は手を差し伸べてくる。

「ありがとうございます」と返事をしてその手を握る。

 静かな笛の音と川のせせらぐ静かな音が、涼しい雰囲気をかもし出している。

 しかし、握った互いの手のひらだけは、確かな熱を持っていた。


 一歩一歩を踏みしめるように階段を下る。木々が揺れる。一寸先は闇という言葉を体現たいげんしているくらいに薄暗い。

 一人だったならこんなところには来れないが、彼が手を引っ張ってくれるから、どこまでも行けるような気がした。


 土手の下を見ると、北から流れてくる大河が静かに流れていた。

「夜の葉桜も、綺麗だな」

 下を向く私の隣で、彼は頭上の桜を見上げていた。

「光次郎さんは、本当に、葉桜がお好きなんですね」

「そうだな……。桜の花も好きだが、散った後の姿もとてもきれいだと、僕は思うんだ」

「変な、ひとですね」

 そう言うと、彼はふっと笑った。気分を害した様子もない。本当に鷹揚おうような人だ。

実和みわさん」

 彼の微笑みに笑い返していると、突然彼は私の方を向いた。

「はい」

「この前の話だが、なかったことにしてほしい」


 



 一瞬強く風が吹いた。

 同時に今まで遠く聞こえていた楽器の音や、足元の虫とかえるの声が、聞こえなくなる。まるで私たちの会話に気をつかっているかのように。


「どうして、ですか」

「やっぱり、君に僕は釣り合わないよ。僕は、農家の次男坊に過ぎない。君は銀行員の娘。生きる世界が違うんだ」

「……」

「だから……」

「待ってください。光次郎さん」

 

 彼の声をさえぎって私は言った。

「悪いが、もう」

「私が今更そんなことを信じると思いますか?」

 彼は顔をそむけて目を合わせようとしない。その仕草こそが、彼が本心を言っていないことの証明だった。

 わたしは彼の視界に回って、無理やりに彼を見上げる。

「バレバレですよ。そんな嘘」

「そんなことはない」

「いいえ嘘です。だって、初めて歩いたとき、言ってくれたじゃないですか。家柄いえがらとか立場とか関係ないって。ただ僕はあなたを愛してるって」

「……」

「気が変わったのなら、素直にそうおっしゃてください。私、諦めますから」

 そう言うと、彼は頭を振った。そこを明確に否定するなら、なぜ。

「だったら……」

 次は私の声が遮られる番だった。

 彼は川の音や桜の葉が落ちる音に消されてしまいそうなくらい小さな声で、言った。


「召集命令が、来たんだ」

 


 


 戦争は長期化していた。

 初め、中国方面だけだった戦線は、いまや東南アジアや南洋諸島の各地にまでも拡大していた。その余波よはを受けて、寺からはかね徴収ちょうしゅうされ、食料は配給制になった。「皇国のために」、「御国のために」、そんな言葉が、さながら枕詞まくらことばのように生活に浸透していた。

 しかし、それでもどこか戦争は他人事だった。自分の命や生活の深くにまで貫入かんにゅうしてくるものではないと、勝手に思っていた。


 その戦争が、今、目の前に厳然げんぜんたる現実として立ち塞がっている。


「い、いつですか」

「昨日の朝方、電報でんぽうが来たんだ」

「そうじゃないです……! いつ、出征ですか……」

「一週間後には出発しなければいけない」

「そんな……」

「戻ってくるかもわからない男を待ち続けるのはつらいだろう。君にとっても」

 苦々しい顔で彼は言った。

 そんなことないです。私はそう即答できなかった。彼を待つのが辛いわけではない。しかし、まだ理解が追い付いていなかった。

「君の幸せのためにも」

 呟くように続ける彼は、ふと、不自然なところで言葉を切った。夜闇よるやみで、ただでさえ見えづらい彼の横顔が歪んだ。


「私の幸せは、あなたと一緒にいることです。なにがあっても、あなたといることです」


 せきを切ったように涙があふれる。涙はぬぐっても拭っても止まらない。

「……ごめんなさい。ごめんなさい……」

 にじんだ視界が急に黒くなる。私の背に、彼の腕が回っていた。

「謝るのは僕の方だ」

「光次郎さん……」

「僕の本意じゃない。けれど、こんな形で別れることになってしまったことを、許してほしい」

 彼の言葉は震えていた。私を抱く腕も震えていた。

 悲しさからなのか、それとも悔しさからなのか、それは私にはわからなかった。


 風に揺れた葉が一枚木を離れて、川の流れに落ちていく。その一瞬、見上げた景色に、涙をこらえる彼のつらそうな横顔が映る。

 私は見なかったふりをして下を向きなおした。


 すっかり日の落ちた闇の中、私は彼を強く抱きしめた。彼も強く抱きしめ返してくれた。


 

 祭りばやしの音は、もはや何一つ耳に入らない。

 私たちは結局、何も決められなかった。別離も、関係の継続も、保留も、何一つ決めることはできなかった。

 神社の鳥居の前までの歩みの中、私たちの間に会話はなかった。


「じゃあ」

 彼はきびすを返す。私はそんな彼の甚兵衛のそでをつかんだ。

 それでも、心の中の、ただ一つの、決断を伝えたかった。

「うん?」

「出立の日には、お見送りに行きます」

「……うん」

「必ず、参りますから」

「ありがとう」

「光次郎さん」


 私は上目遣いで彼を見た。彼は了解したというようにわたしの方に顔を近づけて、深く口付けをした。

 何も決断できなかったことをごまかすかのような、そんな口付けだった。

 顔を離して数瞬、彼は柔く微笑ほほえみ、身体も離した。

「じゃあ、そろそろ」

「はい。……また」

 今日だけは、意地でもさようならとは言いたくなかった。それを言ってしまったら、すべてが終わってしまう気がした。



 けれど、そんなところで意地を張るくらいなら、あなたと別れたくないという言葉に意地を張れればよかったのに。

 いつものようにゆったりと歩く彼の後ろ姿は、普段よりも小さくなってしまったように見えた。

 

 

 

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